

電子線後方散乱回折法(EBSD: Electron Backscatter Diffraction)は、建築用鋼材や高力ボルトなどの金属材料が持つ「結晶の並び方」をナノメートルオーダーで解析する技術です 。現場で一般的に使われる金属顕微鏡(光学顕微鏡)は、酸洗した金属表面の凹凸を見て「フェライト」や「パーライト」といった組織を判別しますが、それぞれの結晶が「どの方向を向いているか」までは分かりません。EBSDは、走査型電子顕微鏡(SEM)の鏡筒内に特殊な検出器を取り付け、この見えない情報を可視化します 。
参考)SEM-EBSDによる結晶解析
測定の物理的な原理は「ブラッグの回折条件」に基づきます。SEMの中で試料を水平ではなく、入射電子線に対して約70度という急角度に傾斜させて設置するのが最大の特徴です 。電子ビームが試料の特定の点(結晶)に当たると、電子は原子によってあらゆる方向に散乱(非弾性散乱)されますが、特定の角度を満たす散乱電子だけが結晶格子面で強め合い、回折(弾性散乱)を起こします。
参考)https://www.mst.or.jp/method/tabid/145/Default.aspx
この回折した電子が、試料の横に設置された蛍光スクリーンに当たると、互いに交差する無数の帯状の模様が映し出されます。これを**菊池パターン(Kikuchi Pattern)**と呼びます 。菊池パターンは結晶構造の投影図のようなもので、バンドの交差する位置や幅は、その結晶がどの方向を向いているか(結晶方位)と、格子定数(原子の間隔)に固有に対応しています。
参考)微細構造を明らかにする物理解析(13)/ 広領域測定によるE…
光学顕微鏡では見えない「双晶境界」や、非常に微細な「下部組織(サブグレイン)」まで識別できるため、材料の強度がなぜ低下したのか、あるいは加工によってどのようなダメージが入ったのかを物理的な根拠を持って説明できるようになります。特に、近年の建築鋼材は高強度化(ハイテン化)が進んでおり、微細組織の制御が不可欠になっているため、EBSDによる定量的な解析需要が急増しています。
測定対象に関する重要な注意点として、EBSD信号の発生領域があります。入射した電子線が試料内部深くまで到達しても、回折パターンの情報を持って脱出できるのは、最表面からわずか30nm~50nm程度の深さまでです 。つまり、試料の「極表面」の状態が解析結果の全てを左右することになります。これが、次項で解説する「試料前処理」がEBSDにおいて最も重要だと言われる理由です。
参考)http://www.ikegamiseiki.co.jp/common/pdf/%E6%A5%AD%E7%95%8C%E8%AA%8C%E3%80%8C%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%80%8D%EF%BC%88%E6%8A%9C%E7%B2%8B%EF%BC%89.pdf
JEOL日本電子|SEM-EBSDによる結晶解析の基礎と用語集(原理の図解が豊富)
MST|電子後方散乱回折法の深さ分解能と空間分解能の詳細スペック
建築現場で採取したボルトや破断面のサンプルをEBSDで観察しようとする際、最大の壁となるのが「試料調整(前処理)」です。光学顕微鏡観察であれば、耐水ペーパーで研磨し、ダイヤモンドペーストで鏡面に仕上げ、ナイタール腐食液でエッチングすれば十分観察可能です。しかし、EBSDにおいて通常の機械研磨仕上げは「測定不能」の主要因となります 。
参考)https://xpslab.eng.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2023/04/8a965fe6b742ad75c765c477670dbb37-1.pdf
通常の機械研磨(物理的な摩擦による研磨)を行うと、金属表面には目に見えない微細な「加工変質層(ベイルビー層)」が形成されます。これは結晶構造が壊れてアモルファス状になった層で、厚さは数10nm~数100nmに及びます。前述の通り、EBSDの信号(回折電子)は表面50nm程度からしか脱出できないため、この加工変質層が「曇りガラス」のような役割を果たし、菊池パターンを遮断してしまうのです。
この問題を解決し、鮮明なデータを取得するためには、加工変質層を完全に除去する以下の特殊な仕上げ処理が必須となります。
特に、建築分野で問題となる「腐食した鋼材」や「疲労亀裂の先端」を観察する場合、サビや酸化物は非常に脆く、機械研磨では脱落してしまいます。クロスセクションポリッシャを用いれば、サビと地金の境界を保ったまま断面を出し、そこからEBSDで「酸化物が粒界に沿って侵入しているか」といった腐食メカニズムの特定が可能になります 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj/66/12/66_586/_pdf
また、試料サイズにも制約があります。SEMのチャンバー内で70度に傾けるため、大きなサンプルは物理的に入りませんし、検出器に接触するリスクがあります。通常は10mm角~最大でも30mm径程度に切り出す必要がありますが、この「切り出し」の際にもカッターや放電加工による熱影響層(HAZ)が入らないよう、低速精密切断機を用いるなどの配慮が求められます 。
参考)https://tiit.or.jp/user/filer_public/26/1b/261bd6bd-566a-48ec-b492-5295973761e7/2020_no23_10_ji-shu-repoarumicai.pdf
神戸大学|クロスセクションポリッシャ(CP)の原理とEBSD前処理への応用
IS-POLISHER|チタンなど難研磨材における加工硬化層除去の重要性
建築構造物の安全性において最もクリティカルな箇所の一つが「溶接部」です。特に近年多用される590MPa級や780MPa級の高張力鋼(ハイテン)は、溶接熱によって組織が複雑に変化し、予期せぬ脆化を引き起こすことがあります。EBSDは、光学顕微鏡では判別困難な溶接部の詳細な組織同定に威力を発揮します 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjws/85/8/85_736/_pdf
1. マルテンサイトとベイナイトの識別
溶接の熱影響部(HAZ)では、急熱・急冷により硬くて脆い「マルテンサイト」や、やや靱性のある「ベイナイト」といった組織が生成されます。これらは光学顕微鏡下ではどちらも針状の組織に見え、熟練者でも区別が困難です。
EBSDの解析パラメータの一つにIQ(Image Quality)値があります 。これは菊池パターンの鮮明さを数値化したものです。
参考)https://daido-dbr.com/dbr/pdf/jsm_7800f_03.pdf
2. 集合組織(Texture)の解析と異方性
鋼材は圧延プロセスを経て作られるため、特定の方向に結晶が揃いやすい性質(集合組織)を持ちます。これは「圧延方向には強いが、板厚方向には弱い」といった機械的性質の異方性を生みます。
EBSDを用いて逆極点図(Inverse Pole Figure: IPF)マップを作成すると、結晶の向きごとに色が塗り分けられます(例:赤色は(001)面、緑色は(101)面など) 。
3. 旧オーステナイト粒界の再構築
高張力鋼の破壊は、しばしば「旧オーステナイト(γ)粒界」に沿って発生します。しかし、室温の状態では組織は既にマルテンサイトやフェライトに変態しており、元のγ粒界は見えません。
EBSDの高度な解析ソフトウェアを用いれば、現在の変態後の結晶方位関係(Kurdjumov-Sachs関係など)から逆算して、**「溶接時の高温状態でどこに粒界があったか」をシミュレーション(再構築)**できます 。これにより、溶接割れが「粒界で起きたのか、粒内で起きたのか」を特定でき、割れの原因が「不純物の偏析(粒界割れ)」なのか「過大な応力(粒内割れ)」なのかを区別する決定的な証拠が得られます。
参考)https://www.jim.or.jp/journal/m/pdf3/61/12/860.pdf
大同分析リサーチ|EBSDによる異種金属接合部・溶接部の結晶評価事例
溶接学会誌|EBSD法を用いた溶接金属の結晶方位解析と組織同定テクニック
建築物のメンテナンスや長寿命化において、「疲労(Fatigue)」の診断は極めて難易度の高い課題です。外観目視や浸透探傷試験(PT)では、「亀裂が入ってから」しか異常を発見できません。しかし、EBSD解析のKAM(Kernel Average Misorientation)法を用いることで、亀裂が発生する前の「疲労の蓄積段階(ダメージ)」を可視化できる可能性があります 。
参考)https://www.nedo.go.jp/content/100506555.pdf
KAM解析とは
KAM(Kernel Average Misorientation)は「局所方位差」とも呼ばれます。測定点(ピクセル)とその周囲の点との間で、結晶方位がどれくらいズレているかを計算し、その平均値をマップ化したものです。
建築分野での応用例:高力ボルトの遅れ破壊調査
高力ボルトの遅れ破壊(水素脆化)は、静的な高応力下で突然破断する恐ろしい現象ですが、そのメカニズム解明にEBSDが寄与しています。
疲労き裂の予兆検知
地震後の建物診断において、外観上は無傷に見えるダンパーやブレースでも、内部では疲労が限界に近い場合があります。サンプリング検査を行い、KAM解析を実施することで、「まだ使える(青色領域が多い)」のか、「もう限界(赤色領域が粒界に沿って繋がっている)」のかを、従来の硬さ試験よりも遥かに高い空間分解能で判定できます 。これは、「亀裂が見えない=安全」という従来の常識を覆す、予防保全の強力なツールとなり得ます。
参考)https://www.qualtec.co.jp/new_qualtec/wp-content/uploads/2021/10/ebsd-analisys.pdf
クオルテック|EBSD分析による疲労破壊・応力集中箇所の早期発見とKAMマップ
JFE21世紀財団|転位組織のECCI観察とEBSD解析による新しい疲労破壊解析
最後に、EBSDを実際の建築プロジェクトや事故調査に導入しようとした際に直面しがちなトラブルと、その対策について、教科書にはあまり書かれない現場視点で解説します。データが出ない、あるいは誤った解釈をしてしまう原因の多くは、装置の性能ではなく「試料の状態」にあります。
1. 「ドリフト」による像の歪み
EBSD測定は、高解像度のマップを得ようとすると数十分~数時間かかります。この間に、SEMのステージが熱膨張や振動でわずかに動いてしまう現象を「ドリフト」と呼びます。
2. チャージアップ(帯電)による解析不能
鋼材は導電性ですが、サビ層や塗膜、あるいは樹脂埋めした樹脂部分に電子線が当たると、逃げ場を失った電子が溜まり「チャージアップ」が起きます。チャージすると入射電子の軌道が曲げられ、菊池パターンが激しく振動したり消失したりします。
3. 「偽対称(Pseudo-symmetry)」による誤指数付け
これが最も危険なエラーです。解析ソフトが誤って別の結晶方位だと判定してしまう現象です。例えば、立方晶の鉄において、ある角度から見ると非常に似通ったパターンを示す方位が存在します。
4. 表面の「凹凸」によるシャドウイング
破面(フラクトグラフィ)を直接EBSD解析したいという要望は多いですが、破面は凹凸が激しいため、突起の影になった部分はパターンが出ません(シャドウイング)。
EBSDは魔法のツールではなく、極めて繊細な物理計測です。しかし、これらの落とし穴を理解した上で使いこなせば、建築鋼材の破損原因について、これまでの常識を覆すような深い洞察を与えてくれるでしょう。
北海道大学|EBSD測定のトラブルシューティングと試料表面劣化の影響
オックスフォード・インストゥルメンツ|EBSD解析ソフトにおける偽対称補正とノイズ処理技術