

フタル酸ジイソブチル(Diisobutyl Phthalate、略称:DIBP)は、建設業界や製造業において長年使用されてきた化学物質の一つです。しかし、近年の法規制の強化や環境意識の高まりにより、その取り扱いや用途には大きな変化が訪れています。建築現場に従事するプロフェッショナルとして、この物質が具体的にどのような目的で使われ、なぜ注意が必要なのかを正しく理解することは、自身の健康を守るだけでなく、施工品質や法的リスク管理の観点からも極めて重要です。
DIBPは、無色透明で油状の液体であり、わずかに特異な臭気を持っています 。化学的にはフタル酸エステル類に属し、主にプラスチック製品に柔軟性を与える「可塑剤」として機能します。特にポリ塩化ビニル(PVC)との相性が良く、硬い樹脂を柔らかく加工しやすい素材に変えるために添加されてきました 。
参考)フタル酸ジイソブチル - Wikipedia
建築現場において、DIBPは目に見えない形で多くの資材に含まれている可能性があります。例えば、壁紙(クロス)や床材(クッションフロア)、電線の被覆材などが代表的です。これらの建材が柔軟性を持ち、施工しやすくなっているのは、DIBPのような可塑剤が繊維や樹脂の分子の間に入り込み、分子同士の結合を緩めているためです 。
参考)https://www.knights.jp/PDF/P-00167.pdf
しかし、この有用な性質の裏側には、いくつかのリスクが潜んでいます。DIBPは揮発性が比較的低いものの、長期間にわたって徐々に空気中に放散される性質(ブリードアウトや揮発)を持っています。これが室内空気汚染、いわゆるシックハウス症候群の一因となる可能性が指摘されており、居住者の健康被害を防ぐために厳しい管理が求められるようになりました 。
現在、世界的にDIBPを含むフタル酸エステル類への規制は強化の一途をたどっています。かつては汎用的に使われていた物質ですが、生殖毒性や内分泌かく乱作用(環境ホルモン)の懸念から、欧州のRoHS指令やREACH規則をはじめ、日本国内でも特定用途での使用制限やSDS(安全データシート)による管理が必要不可欠となっています 。建築従事者にとっては、新規の建材選びだけでなく、解体やリノベーション工事における「過去の建材」に含まれるDIBPのリスク管理も新たな課題となっています。
フタル酸ジイソブチルの最も主要な用途は、塩化ビニル樹脂(PVC)の可塑剤としての利用です。PVCは本来、非常に硬く脆いプラスチックですが、可塑剤を添加することで、ゴムのように柔らかく、耐久性のある素材へと変化します。DIBPはこの可塑化効率が高く、他の薬剤とも混ざりやすいため、コストパフォーマンスに優れた添加剤として重宝されてきました 。
具体的には、以下のような製品に利用されています。
特に塗料やコーティング剤の分野では、DIBPは重要な役割を果たしてきました。木工用塗料や金属用塗料において、乾燥後の塗膜が温度変化や振動で割れてしまわないよう、適度な弾力性を維持するために添加されます 。また、印刷インキや接着剤にも配合されることがあり、施工現場で何気なく使っている副資材にもDIBPが含まれている可能性があります。
しかし、これらの用途においても代替化が進んでいます。特に子供が口にする可能性のある玩具や育児用品では、DIBPを含むフタル酸エステルの使用は厳しく規制されています 。建築用途では直接的な「禁止」ではない場合もありますが、環境配慮型の現場では「非フタル酸系」の塗料や資材が指定されるケースが増えており、仕様書を確認する際には注意が必要です。
参考リンク:環境省 - 化学物質の環境リスク評価書(フタル酸ジイソブチル)
このリンク先には、環境省による詳細なリスク評価が記載されており、物理化学的性状や環境中での挙動について確認できます。
建築内装の分野において、DIBPの存在を最も意識すべきなのは「床材」と「接着剤」です。クッションフロア(CFシート)や塩ビタイルなどの床材は、施工のしやすさと歩行感を良くするために多量の可塑剤を含んでいます。DIBPは安価で性能が良いため、かつてはこれらの製品に広く採用されていました 。
また、これらの床材を固定するための接着剤や、目地を埋めるシーリング材(コーキング)にもDIBPが使用されることがあります。接着剤においてDIBPは、樹脂成分を液状に保つ溶剤のような役割と、硬化後の接着層に弾性を持たせて追従性を高める役割の両方を担っています。特に、酢酸ビニル樹脂系エマルジョン接着剤(木工用ボンドなど)の一部銘柄や、変成シリコーン系シーリング材などで、可塑剤として配合されているケースがあります 。
内装仕上げ工事を行う職人にとって、これらの材料からのDIBPの揮発は無視できない問題です。特に密閉された室内での作業では、揮発したDIBPが滞留しやすくなります。施工直後だけでなく、引き渡し後の居住空間においても、室温が上がると建材からの放散量が増加する傾向があります(これを「ベイクアウト」現象とも呼びますが、逆に放散を促進してしまうリスクもあります) 。
最近の建材、特にJIS規格やJAS規格の上位等級(F☆☆☆☆など)を取得している製品では、揮発性有機化合物(VOC)の低減が進んでいますが、可塑剤であるフタル酸エステルはVOC(揮発しやすい物質)というよりもSVOC(準揮発性有機化合物)に分類され、長期間にわたってゆっくりと揮発し続ける点が特徴です。そのため、施工時の換気だけでなく、竣工後の換気計画も重要になります 。
参考)住宅紛争処理技術関連資料集
DIBPを取り扱う上で、法的規制の理解は避けて通れません。まず、現場の安全管理に直結するのが「消防法」です。フタル酸ジイソブチルは、消防法において「第4類危険物 第3石油類(非水溶性液体)」に分類されています 。
参考)http://www.showa-chem.com/MSDS/04062132.pdf
これは、引火点が比較的高い(約160℃以上)ものの、火災時には燃料となって激しく燃える可能性があることを意味します。現場での保管においては、指定数量(第3石油類の場合は2000リットル)を超える場合、消防法に基づく許可施設での保管が必要となります。少量の持ち込みであっても、火気厳禁の管理や、他の可燃物との離隔距離には十分な配慮が必要です。特に、塗料やシンナー類と一緒に保管するケースが多いため、危険物の混載によるリスク管理が求められます。
次に重要なのが「GHS対応のSDS(安全データシート)」の確認です。労働安全衛生法に基づき、DIBPを含む製品を譲渡・提供する際にはSDSの交付が義務付けられています。SDSには、その製品に含まれる化学物質の危険有害性や、緊急時の応急処置、取り扱い上の注意が記載されています 。
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/84-69-5.html
SDSで確認すべき主な項目:
特に注意が必要なのは、DIBPが「指定化学物質」として、PRTR法(化学物質排出把握管理促進法)の対象になっている点です(第一種指定化学物質)。一定量以上を取り扱う事業者は、排出量や移動量の届出が必要になる場合があります。建設現場単体で届出が必要になるケースは稀ですが、元請け業者や管理会社としては、環境負荷低減のために使用量を把握しておくことが望ましいでしょう 。
参考)https://www.env.go.jp/chemi/report/h16-01/pdf/chap01/02_3_24.pdf
参考リンク:職場のあんぜんサイト - フタル酸ジイソブチル SDS情報
厚生労働省が提供するこのページでは、GHS分類に基づく危険有害性情報や、詳細な応急処置、火災時の措置などが網羅されており、現場での安全教育資料として最適です。
ここからは、一般的な検索結果ではあまり語られない、建築現場特有の「盲点」について解説します。それは、「代替の代替」として使われてきた歴史と、リノベーション工事におけるリスクです。
実は、フタル酸ジイソブチル(DIBP)は、以前はより毒性が強いとされた「フタル酸ジブチル(DBP)」の代替物質として使用量が増えた経緯があります。DBPと化学構造が非常によく似ており(炭素数は同じで構造異性体の関係)、性能も酷似しているため、DBPへの規制が厳しくなった2000年代以降、メーカーは安価で性能の近いDIBPへの切り替えを進めました 。
参考)フタル酸ジイソブチル(DIBP) - Chemwatch
しかしその後、DIBP自体にもDBPと同様の生殖毒性が確認されたため、欧州RoHS指令やREACH規則で追加規制の対象となりました(通称「RoHS2」で追加されたフタル酸エステル4物質の一つです) 。
参考)RoHS 指令規制物質の分析 —フタル酸エステルの分析—
この歴史的経緯が建築現場で何を意味するかというと、「2000年代後半から2010年代にかけて建築・改修された建物」には、DIBPが集中的に使用されている可能性が高いということです。現在行われている解体工事やリノベーション工事の現場は、まさにこの時期の建材を扱うことになります。
つまり、新品の建材だけでなく、**「今まさに解体しようとしているその壁や床」**から、DIBPが放出される可能性があるのです。この視点は、新築工事メインの現場では見落とされがちですが、改修工事においては作業員の暴露対策として非常に重要です。
また、現在DIBPの代替として主流になっているのは、DINP(フタル酸ジイソノニル)やDOTP(テレフタル酸ジオクチル)といった、より分子量が大きく揮発しにくい、あるいは毒性が低いとされる可塑剤です。しかし、これらも全く無害というわけではなく、用途によっては新たな規制の議論が進んでいるものもあります。常に「化学物質は変化する」という意識を持つことが大切です。
最後に、現場での具体的な安全対策についてまとめます。DIBPを含む建材や塗料を扱う際、あるいはDIBPが含まれている可能性のある旧建材を撤去する際には、以下の対策を徹底してください。
1. 適切な保護具の選定
DIBPは皮膚から吸収される(経皮吸収)可能性があります。軍手のような繊維製の手袋では、液体が浸透して皮膚に長時間接触し続けることになり、かえって危険です。
2. 換気の徹底
DIBPは空気より重い蒸気を発生させ、床付近に滞留しやすい性質があります。
3. 作業後の衛生管理
休憩や食事の前には、必ず手洗いを行ってください。手についたDIBPが食事と一緒に口に入る(経口摂取)ことが、最も避けるべき暴露経路の一つです。作業服に付着した汚れも、そのまま家庭に持ち帰らないよう、現場での着替えや専用の洗濯を行うことが推奨されます。
4. 廃棄物の処理
DIBPを含む廃材(塩ビ管、床材など)は、産業廃棄物として適切に処理する必要があります。特に「廃プラスチック類」として処理する際、焼却時の温度管理が不適切だと有害物質が発生する可能性があるため、信頼できる産廃業者に委託し、マニフェスト(産業廃棄物管理票)で最終処分を確認してください 。
建築現場は、化学物質と日常的に接する場所です。「昔から使っているから大丈夫」という過信は捨て、最新の知識と装備で自分自身の体を守りましょう。DIBPの特性を理解することは、その第一歩となります。
参考リンク:NITE - フタル酸エステル類(詳細リスク評価書)
独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)による資料で、フタル酸エステル類の用途別の排出量や暴露シナリオが詳細に分析されており、専門的な知識を深めたい場合に有用です。