

ニコチン酸欠乏症(ペラグラ)は、現代の日本では稀な病気だと思われがちですが、実は特定の生活習慣を持つ人々にとっては決して他人事ではありません。特に、建築現場で体を動かし、夜はお酒で疲れを癒やすといったライフスタイルを送る方々にとって、この病気は「隠れたリスク」として存在しています。
ニコチン酸(ナイアシン)は、私たちが食べたものをエネルギーに変えるために不可欠なビタミンB群の一種です。これが不足すると、体全体の代謝システムがうまく回らなくなり、皮膚、消化器、そして脳神経系に深刻なダメージを与えます。その原因は単なる「栄養失調」だけではなく、アルコールの代謝メカニズムや、日光との関係など、複合的な要因が絡み合っています。ここでは、建築従事者が特に注意すべき原因について深掘りしていきます。
ニコチン酸欠乏症の現代における最大の原因の一つが、アルコールの慢性的な多飲です。仕事終わりの一杯は格別ですが、その量が常習的に多い場合、体内のナイアシン備蓄は急速に枯渇していきます。
なぜアルコールがニコチン酸(ナイアシン)を奪うのでしょうか?そのメカニズムは、肝臓でのアルコール分解プロセスにあります。
摂取されたアルコールは、肝臓で「アセトアルデヒド」という毒性の高い物質に分解され、さらに無害な「酢酸」へと代謝されます。この二段階の分解プロセスの両方において、**NAD(ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド)**という補酵素が大量に必要とされます。このNADの原料こそが、ナイアシンなのです。
つまり、お酒を飲めば飲むほど、体内のナイアシンは「アルコールの解毒」という緊急性の高い処理に優先的に回されてしまいます。その結果、本来必要である皮膚の再生や、神経伝達物質の合成、エネルギー産生といった日常的な維持管理に回すナイアシンが不足してしまうのです。
さらに悪いことに、アルコールによる胃腸へのダメージは、食事から摂取したナイアシンの吸収率そのものを低下させます。「飲んでいるときはつまみをあまり食べない」というスタイルの場合、供給が絶たれた状態で消費だけが加速するため、欠乏症のリスクは跳ね上がります。建築現場での重労働後、空腹状態での飲酒習慣がある場合は特に注意が必要です。
ナイアシンの代謝とアルコールの関係について、専門的な知見は以下のMSDマニュアルも参考にしてください。
MSDマニュアル プロフェッショナル版:ナイアシン欠乏症
参考)ナイアシン欠乏症 - 09. 栄養障害 - MSDマニュアル…
「食事はコンビニのおにぎりやカップ麺で済ませることが多い」という方も多いのではないでしょうか。ニコチン酸欠乏症の原因として、単純なビタミン不足に加えて重要なのが、必須アミノ酸である**「トリプトファン」の摂取不足**です。
実は、人間の体は素晴らしい機能を備えており、食事から摂取したトリプトファンというアミノ酸を原料にして、肝臓でナイアシンを合成することができます。これを「トリプトファン・ナイアシン変換」と呼びます。しかし、この変換効率は非常に悪く、**「およそ60mgのトリプトファンから、わずか1mgのナイアシンしか作れない」**という比率になっています。
このため、以下のような食事パターンが続くと、リスクが高まります。
また、ビタミンB2やB6もこの変換プロセスに関わっています。カップ麺ばかり食べていて、副菜として野菜や肉類を摂らない場合、これらの補酵素も不足し、せっかく摂ったタンパク質をナイアシンに変換できなくなってしまいます。
現場の弁当で「白飯と漬物だけ」「揚げ物だけで野菜なし」といった偏りを避け、卵や納豆、豚肉などを意識的に追加することが、予防の第一歩となります。
建築従事者にとって最も警戒すべき症状であり、かつ原因を悪化させる要因が**「日光(紫外線)」**です。ニコチン酸欠乏症の典型的な症状の一つに「日光過敏症(光線過敏)」を伴う皮膚炎があります。
体内のナイアシンが欠乏すると、DNAの修復機能が低下します。紫外線によって皮膚の細胞がダメージを受けた際、健康な状態であればナイアシンを用いた酵素反応によって速やかに修復されますが、欠乏状態ではこの修復が追いつきません。その結果、日光に当たった部分だけが激しく炎症を起こし、火傷のような水疱や、赤黒い色素沈着を残すようになります。
この症状には非常に特徴的な現れ方があります:
屋外で長時間作業をする建築職人の方々は、常に強力な紫外線にさらされています。「単なる日焼けだろう」「汗疹(あせも)だろう」と放置していると、皮膚がガサガサになり、剥がれ落ち、最終的には黒ずんで硬化してしまいます。
もし、日光に当たる部分だけに異常な皮膚トラブルが続き、同時に胃腸の調子も悪い場合は、皮膚科での塗り薬だけでなく、内科的な栄養療法が必要なサインかもしれません。
皮膚症状の詳細や写真などは、以下の家庭版マニュアルも参考になります。
MSDマニュアル 家庭版:ナイアシン欠乏症の症状と写真
参考)ナイアシン欠乏症 - 11. 栄養障害 - MSDマニュアル…
身体的な要因だけでなく、精神的なストレスや、それに伴う胃腸の不調も、ニコチン酸欠乏症の間接的な原因となります。
建設現場での厳しい工期管理、人間関係、安全管理への緊張感など、慢性的な強いストレスは自律神経を乱します。自律神経の乱れは胃腸の働きを低下させ、食べたものの消化吸収能力を著しく落とします。これを「吸収不良症候群」と呼ぶことがありますが、いくら栄養価の高い食事をしていても、腸がそれを吸収できなければ、体は欠乏状態に陥ります。
特にナイアシン欠乏症の症状として「下痢」が含まれますが、これは原因でもあり結果でもあります。
この「負のループ」に入ると、食事療法だけでは回復が難しくなります。また、特定の薬剤(結核の薬であるイソニアジドや、一部の抗がん剤など)を服用している場合、ナイアシンの代謝が阻害されることが知られています。持病があり薬を飲んでいる方で、原因不明の皮膚炎や下痢が続く場合は、薬の副作用によるナイアシン欠乏の可能性も医師に相談すべき項目の一つです。
ナイアシンの耐容上限量や安全性については、国立健康・栄養研究所の情報が信頼できます。
国立健康・栄養研究所:ナイアシンの安全性・有効性情報
参考)ナイアシン - 「 健康食品 」の安全性・有効性情報
最後に、あまり一般的には語られない視点ですが、**建築従事者特有の「高エネルギー消費」**自体が、相対的なニコチン酸欠乏の原因になり得るという点について解説します。
ナイアシン(ニコチン酸)の最も重要な役割は、糖質や脂質を燃やしてATP(アデノシン三リン酸)というエネルギー通貨を作り出すことです。つまり、体を激しく動かし、大量のエネルギーを消費する人ほど、その代謝を回すためのナイアシンが大量に必要になるのです。
デスクワークの人と、炎天下で資材を運び続ける職人とでは、ビタミンB群の必要摂取量は異なります。しかし、日本の食事摂取基準は一般的な活動レベルを基準にしていることが多く、過酷な肉体労働を行う人々の特異的な需要まではカバーしきれていない場合があります。
「スタミナをつける」と言って、炭水化物(おにぎりやラーメン)や脂質ばかりを大盛りで食べても、それを燃やすための「着火剤」であるナイアシンやビタミンB1が不足していれば、エネルギーは作られず、逆に疲労物質として蓄積してしまいます。
建築のプロとして良い仕事をするためには、道具の手入れと同様に、自分の体を動かすための「酵素とビタミン」の補充戦略が必要です。
もし心当たりがある場合、まずは晩酌の量を少し減らし、コンビニ弁当に「カツオ(ナイアシンが豊富)」のたたきや、「レバー」「鶏むね肉」の惣菜を一品追加することから始めてみてください。それは明日の現場でのパフォーマンスを劇的に変える、最も確実な投資となるはずです。