

欧州の化学物質規制であるREACH規則において、三酸化アンチモン(Antimony Trioxide、CAS No. 1309-64-4)は、その有害性から非常に厳しい監視下に置かれています。建築業界においても、難燃剤や顔料の助剤として広く使用されているこの物質は、現在大きな転換点を迎えています。
まず理解すべきは、三酸化アンチモンがSVHC(高懸念物質)の候補リスト(Candidate List)に収載されているという事実です。これは、動物実験等により「発がん性区分1B(人に対して発がん性がある可能性が高い)」と評価されたことに起因します。SVHCに指定されると、EU域内への製品輸出において、その物質が成形品中に重量比で0.1%を超えて含有されている場合、供給者は受領者に対して安全使用情報を伝達する義務が生じます。これは単なる努力目標ではなく、サプライチェーン全体に関わる法的拘束力を持つ要件です。
さらに警戒すべきは、単なる情報の伝達義務にとどまらず、使用そのものを禁止・制限する「制限案(Annex XVII)」への動きです。欧州化学品庁(ECHA)は、ハロゲン系難燃剤に関する規制戦略の中で、相乗剤として頻繁に使用される三酸化アンチモンも包括的な規制対象とする検討を進めています。
現在、三酸化アンチモンに関しては、労働者の吸入曝露リスクを低減するため、特定の用途や製品カテゴリーにおいて許容濃度を厳しく設定する制限プロセスが議論されています。特に、肌に長時間触れる可能性のある建材や、粉塵が発生しやすい内装材などについては、将来的に現在の0.1%という閾値よりもさらに低い基準値(例:特定の条件下での溶出量制限や、製品カテゴリごとの含有禁止)が設けられる可能性があります。
REACH規則 SVHCリストの最新状況を確認する
参考リンク:SVHC(高懸念物質)のリスト更新状況や、三酸化アンチモンの収載理由(発がん性等)について詳細に解説されています。
建築分野において三酸化アンチモンがこれほど重宝されてきた理由は、その卓越した「難燃助剤」としての性能にあります。三酸化アンチモン単体では難燃効果は限定的ですが、塩素や臭素を含むハロゲン系難燃剤と組み合わせることで、「ラジカルトラップ効果」と呼ばれる強力な相乗効果を発揮します。
三酸化アンチモンの難燃メカニズムと建築用途:
この「少量添加で絶大な効果」という特性ゆえに、代替品の開発は技術的に極めて困難な課題となっています。REACH規制や脱ハロゲンの流れを受けて、水酸化アルミニウムや水酸化マグネシウムなどの金属水酸化物系への代替が進められていますが、これらは三酸化アンチモンと同等の難燃性を出すために、樹脂に対して大量に添加(フィラー化)する必要があります。
代替に伴う建築現場での課題:
このように、単に「規制されたから変える」という単純な話ではなく、建築基準法で求められる不燃・準不燃・難燃材料としての性能を維持しつつ、化学物質規制をクリアするという、二律背反の難題を解決する必要があります。
三酸化アンチモンを難燃助剤として使用する樹脂等とその用途
参考リンク:厚生労働省の資料で、具体的にどのような樹脂(PVC、PBT等)にどれくらいの割合で添加されているかが詳細に記されています。
REACH規則の影響は、化学物質そのものを輸出する化学メーカーだけでなく、それらを含んだ「成形品(Article)」を取り扱う建築資材メーカーや商社にも及びます。ここでキーワードとなるのがSCIPデータベースへの届出義務です。
EUの廃棄物枠組み指令(WFD)に基づき、SVHCを重量比で0.1%を超えて含有する成形品をEU域内で供給する事業者は、ECHAが管理するSCIPデータベースへの情報登録が義務付けられています。これは、廃棄物処理業者が有害物質の所在を把握し、安全にリサイクルや処分を行うための仕組みです。
建設業界が見落としがちな「成形品」の定義と閾値計算の罠:
REACH規則における「成形品」の定義は、「化学的組成よりも、生産時に与えられた形状、表面又はデザインがその機能を大きく決定するもの」とされています。
ここで重要な判例として**「O5A(Once An Article, Always An Article)」原則があります。これは、複雑な製品(例えば、窓枠ユニットや配電盤)全体の重量で0.1%を計算するのではなく、それを構成する個々の部品単位**(パッキン、被覆材、スイッチのプラスチックボタン等)で0.1%を超えているかどうかを判定しなければならないというルールです。
具体的な対応フロー:
日本国内で完結する建設プロジェクトであっても、使用する建材がグローバルサプライチェーンの一部である場合、メーカーから詳細な含有情報の開示を求められるケースが急増しています。特に、外資系企業のオフィスビル建設や、海外規格(LEEDやWELL認証)を目指すプロジェクトでは、REACH準拠が参加条件となることも珍しくありません。
SCIP情報の伝達と義務対象者に関するQ&A
参考リンク:EU域外の事業者が直面するSCIP登録の課題と、サプライチェーン上での情報伝達の仕組みについて実務的な回答が掲載されています。
REACHは欧州の規制ですが、日本の建築現場における管理も近年劇的に厳格化されています。三酸化アンチモンは、労働安全衛生法において「特定化学物質(特化則)」の「管理第2類物質」に指定されています。これにより、製造工場だけでなく、建築現場での取り扱い(特に切断・加工時の粉塵対策)においても厳しい法的義務が課せられています。
日本国内における法的義務(特化則):
独自視点:世界基準とのギャップと「Mシリーズ」措置
ここで注目すべき独自視点は、日本の管理濃度(0.1mg/m³)と、世界の最新研究に基づく推奨値とのギャップです。例えば、ドイツの労働安全衛生連邦研究所(BAuA)などのデータに基づくと、0.006 mg/m³(呼吸性粉塵として)という極めて低い曝露限界値が議論されています。これは日本の基準の約16分の1という厳しさです。
日本国内の法規制をクリアしていても、世界的なEHS(環境・労働安全衛生)基準を持つ施主やプロジェクトでは、法定基準以上の「自主管理基準」を求められるリスクがあります。これを踏まえ、先進的な現場では「Mシリーズ」と呼ばれる対策(Mask:高性能マスク、Method:湿式工法の採用、Monitor:個人曝露測定)を導入し、法規制以上の安全配慮を行う事例が出てきています。特にリフォーム・解体工事において、既存の建材に三酸化アンチモンが含まれている可能性を考慮しないまま粉塵を飛散させることは、作業員の健康被害だけでなく、周辺住民への訴訟リスクにもつながります。
三酸化二アンチモンのリスク評価及び措置検討の結果
参考リンク:厚生労働省による詳細なリスク評価報告書。二次評価値を超過するリスクが高いと判断された経緯や、具体的な管理区分の変更理由が記述されています。
最後に、今後のリスク管理について考えます。REACH規制における制限プロセスは動的であり、一度SVHCに指定された後も、新たな科学的知見に基づいて閾値が引き下げられることが常です。
現在、多くの企業が「含有率0.1%未満」を管理目標としていますが、三酸化アンチモンのような発がん性物質については、将来的には「検出限界以下(Not Detected)」あるいは「意図的添加の禁止」へと規制レベルが引き上げられるシナリオも十分に想定されます。
建設業の管理者が今すぐ着手すべきアクション:
REACH規制は「欧州の話」ではなく、「世界標準の安全基準」のバロメーターです。三酸化アンチモン規制の強化は、建築業界に対して「安価で高性能だがリスクのある材料」からの脱却を迫っています。この変化をコスト増というネガティブな要素としてのみ捉えるのではなく、より安全でサステナブルな建築環境を提供する差別化のチャンスと捉え、早期の対策を講じることが、企業の存続と社会的信用の獲得につながります。
化学物質管理レベル分類表(閾値管理の事例)
参考リンク:企業が独自に設定する化学物質管理ランクの事例。法規制値(0.1%)と自主管理値(10mg/kg等)の違いや、禁止物質への移行基準が具体的に示されています。