

「供回り」は「ともまわり」と読み、供の人々、従者の一群を指す語です。
山月記の該当箇所では、袁傪(えんさん)が勅命の使いとして移動しており、彼に付き従う人員(随行の部下・護衛・役人たち)をまとめて示すのが「供回り」です。
つまり「供回り」は、単に“同行者がいる”という情報ではなく、「立場のある人物が、隊列を組めるだけの人員を伴っている」という社会的・政治的な厚みも含ませやすい語だと押さえると読みが安定します。
ここで注意したいのは、現代語の「お供」よりも少し硬く、「一緒に来た数人」ではなく「勢としての随行団」を思わせる点です。
参考)供回り(トモマワリ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
辞書でも「供勢(ともぜい)」のような同義語が挙げられ、「群れ」「一群」というまとまりが核にあります。
この“まとまり”があるからこそ、次に出る「多勢」「恃む」と結びつき、袁傪側の安全感(あるいは慢心)が短い語で立ち上がります。
参考)『山月記』の意味調べノート、語句や漢字の読み方まとめ
作中では駅吏が「この先に人食い虎が出るので、白昼でないと通れない」と止めますが、袁傪は「供回りの多勢なのを恃み」、その忠告を退けて出発します。
ここでの「多勢」は人数が多いこと、「恃む」は頼りにする・当てにする、という基本義で理解してよいです。
したがって直訳的には「随行が大勢いるのを頼みにして(安心して)」という意味になり、危険情報に対する判断の根拠を一瞬で提示しています。
ただ、この一文は“臆病ではない勇敢さ”を礼賛するというより、官の権威が生む判断の偏り(=数で安全を買える感覚)を匂わせる配置になっています。
参考)301 Moved Permanently
現に、直後に虎は草むらから躍り出て、襲いかかるかに見えます。
つまり「供回りの多勢」という安全装置が、すぐ次の瞬間に無力化されかけることで、場面の緊張と不穏さを増幅する“前振り”として機能します。
読みを深めるコツは、ここを「袁傪は無謀だった」で終わらせず、「多勢を恃む」という発想自体が、官僚的な序列や権勢に支えられた心性を表す、と捉えることです。
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「供回り=部下がたくさんいる地位」であり、傍目にも勢いがある(出世している)ことを示す、という読みは、人物像の理解に直結します。
この一文だけで、袁傪が“旅人の一人”ではなく“行列を連れて動く側”であることが読者に伝わります。
山月記は、虎となった李徴と旧友の袁傪が道中で遭遇する場面を大きな転換点として組み立てます。
その遭遇の直前に「供回りの多勢なのを恃み」が置かれることで、袁傪の現実的な強さ(数・官の力)と、李徴の異常な存在(人食い虎)を正面衝突させる準備が整います。
言い換えると、「供回り」は“人間社会の力学”の象徴として立ち、虎はそれを踏み越える“別種の力”として出てくる構図です。
このとき虎は、ただの危険生物としてではなく、草むらからの跳躍→引き返して隠れる→人間の声がする、という不自然な挙動で描かれます。
結果として読者は「多勢なら勝てる」という常識を一度置いた上で、“常識の外側”にある出来事(虎が言葉を話す)へ連れていかれます。
「供回り」という現実語がしっかりしているほど、次に来る超現実が際立つ——この対比の設計は、語句問題の暗記だけでは見落としやすいポイントです。
また、この場面は本文中で袁傪が“止められても進む”選択をすることで、偶然ではなく必然として李徴に遭遇したように見せています。
駅吏の忠告を退ける判断は、物語上「遭遇の成立条件」でもあり、語句「供回り」がプロットを駆動しているとも言えます。
語彙を“意味調べの対象”としてだけでなく、“筋を動かす装置”として読むと、山月記の文体の精密さが体感できます。
権威性のある本文(原文)の確認:どの場面で「供回り」が出るかを一次資料で確認できる(全文)
青空文庫:中島敦『山月記』
「供回りの多勢」は、袁傪の“現在地”を説明する情報でもあります。
李徴が虎になった後に旧友へ語りかける物語なので、再会の瞬間に袁傪が出世していること(=供回りを連れていること)が示されると、李徴側の敗北感や自己意識がより刺さる構造になります。
実際、作品全体は李徴の自尊心と羞恥心の葛藤、そしてそれが破綻していく告白へ収束していきます。
ここで意外に効いているのが、「供回り」が“袁傪の人格”を直接褒めない点です。
袁傪が立派だから尊敬されている、というより、「供回りが多い=官の序列の上位にいる」という、社会制度の手触りで人物が立ち上がります。
山月記はこのように、心理の物語でありつつ、官僚制という外的構造(地位・行列・勅命)も同時に描いており、「供回り」はその接点になる語です。
さらに、袁傪が「供回りの多勢」を恃んだ瞬間、彼は“個人の旧友”である前に“公の任務を帯びた者”として場面に立ちます。
その公的な姿のまま、草むらの奥から「李徴」が呼びかけてくるため、私人(友情)と公人(官)を同時に引き裂く緊張が生まれます。
語彙「供回り」を押さえることは、実は人物関係の温度差(出世した側/脱落した側)を読むことにもつながります。
検索上位の解説では「供回り=お供の人々」とまとめられがちですが、山月記で重要なのは“語の硬さ”が生む距離感です。
もしここが「連れの者」や「同行者」なら、袁傪は旅の個人に見えやすく、虎との遭遇は“運の悪い事件”に寄りますが、「供回り」だと最初から公的で格式ある場面になります。
この語感の差が、李徴の悲劇を「個人の不幸」ではなく「社会的な落差が可視化される悲劇」に押し上げる、という読み筋が立てられます。
また「供回り」は、読者に“視点の高さ”も提供します。
個人の心情に密着する語ではなく、行列を外から眺めるような語なので、場面のカメラが少し引き、草むらから飛び出す虎の異様さがより映える配置になります。
結果として、李徴の告白へ入る前に「世界は秩序立っていたのに、そこへ裂け目が入る」という感覚が強化され、物語の導入として非常に合理的です。
そのうえで、意味調べとしての実務的な答えも最後に固定しておきます。
この三語を一続きで理解すると、「供回りの多勢なのを恃み」は“袁傪が、随行の人数を安全保障として見積もり、忠告を退けた”という意味になり、直後の虎の出現と対になって効いている、と説明できます。