

賃借人からの工事代金は、所有者(賃貸人)には原則請求できません。
賃貸借契約には必ず「貸す側」と「借りる側」の2者が登場します。貸す側が賃貸人(ちんたいにん)、借りる側が賃借人(ちんしゃくにん)です。日常会話では「大家さん」「借主」と呼ばれることが多く、建築・不動産の現場でもこの2語は頻繁に登場します。
混同しやすい理由の一つが、漢字の構造です。「賃貸」は「賃料をとって貸す」、「賃借」は「賃料を払って借りる」という意味で、どちらにも「賃」の字が入っています。さらに、契約書では賃貸人を「甲」、賃借人を「乙」と記載するケースが多く、条文を読み流すと主体を取り違えるリスクがあります。
建築業者が現場でよく直面するのは、リフォームや内装工事の依頼です。依頼者が賃貸人なのか賃借人なのかによって、修繕義務の所在や費用負担の構造が大きく変わります。つまり基本です。
| 用語 | 別称 | 立場 | 主な義務 |
|---|---|---|---|
| 賃貸人(ちんたいにん) | 貸主・大家・家主 | 物件を貸す側 | 修繕義務・使用収益させる義務・費用償還義務 |
| 賃借人(ちんしゃくにん) | 借主・入居者・テナント | 物件を借りる側 | 賃料支払義務・善管注意義務・原状回復義務 |
実際の賃貸借契約書では、賃貸人=甲、賃借人=乙という記載が一般的ですが、物件や会社によって逆の場合もあります。契約書を受け取ったら最初に「甲・乙がどちらを指すか」を確認するのが原則です。
2020年4月に施行された改正民法により、賃貸借における修繕ルールが大きく変わりました。建築業者として工事を受注する立場から見ると、この改正は「誰が修繕を頼む権限を持っているか」を理解するうえで非常に重要です。
改正前の民法606条でも「賃貸人は修繕義務を負う」と定められていましたが、賃借人が自分で修繕できる権利(修繕権)は明文化されていませんでした。2020年の改正では、民法607条の2によって賃借人の修繕権が初めて条文に盛り込まれました。
具体的には次の2つの条件のどちらかを満たすと、賃借人は賃貸人の承諾なしに自らまたは業者に修繕を依頼し、その費用を賃貸人に即時請求できます。
これは建築業者にとって何を意味するのでしょうか? 賃借人から「大家が動いてくれないので自分で修繕したい」という依頼が来た場合、その賃借人が民法上の修繕権を行使しているケースがあります。この場合、工事費用の最終的な負担者は賃貸人(所有者)となるため、工事後に費用の回収先と請求の流れが複雑になります。これは注意が必要です。
同改正では、設備の一部が使えなくなった場合に賃料が「当然に」減額されることも明文化されました(民法611条1項)。修繕が遅れると賃貸人は賃料減額と修繕費用の両方を負うリスクがあるため、賃貸人側としては業者への早期発注が経営上の合理的な選択となります。
参考:2020年民法改正による賃貸借契約の修繕ルールの変更点の詳細
【民法改正 条文例有】民法第607条2「賃借人による修繕」とは? - SFBS
建築・リフォーム業者にとって最も気をつけなければならないのが、この工事代金の回収問題です。賃借人と請負契約を結んで内装工事や改修工事を行ったにもかかわらず、賃借人が代金を支払わずに行方不明になるケースが実務上、一定数発生しています。
こうした場合、「建物の所有者(賃貸人)は工事によって利益を得ているのだから、そちらに請求できるのでは?」と考えるのは自然な発想です。しかし原則として、請負契約の当事者は業者と賃借人のみであり、契約関係にない賃貸人には請求できません。
「請負契約の当事者が貴社と賃借人である以上、第三者である賃貸人には請求できないのが原則です。」(全日本不動産協会 法律Q&A)
ただし、「転用物訴権」と呼ばれる法律上の考え方により、例外的に賃貸人への不当利得返還請求が認められる場合があります。その条件は次の2つです。
仮に例外的に認められたとしても、請求できる金額の上限は「工事施工当時の契約金額」ではなく、「中古物としての内装の現存価格」にとどまります。100万円の工事でも、数年後には現存価格が30万円に下がっていれば30万円しか回収できない可能性があります。これは痛いですね。
また、賃貸借契約において権利金の免除を代わりに「内装工事費はすべて賃借人負担」とする特約がある場合には、賃貸人は「法律上の原因あり」として利益を得ているとみなされ、業者からの請求を一切拒否できます。
建築業者として被害を防ぐには、工事前に「依頼者が賃借人なのか賃貸人なのか」「賃貸借契約上の特約の有無」「賃借人の支払い能力」を確認する習慣が必要です。依頼者の立場を確認するのが条件です。
参考:賃借人が発注した工事代金を所有者に請求できるかどうかの法的根拠
賃借人が注文した内装工事代金 - 公益社団法人 全日本不動産協会
退去時に発生する「原状回復工事」は、建築・内装業者にとって頻繁な受注機会の一つです。ただし、原状回復義務の負担者を正確に理解しないまま受注すると、後から費用負担をめぐるトラブルに巻き込まれるリスクがあります。
国土交通省が公表している「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」によると、原状回復の費用負担は次のように整理されます。
| 損傷の種類 | 費用負担者 | 具体例 |
|---|---|---|
| 経年劣化・通常損耗 | 賃貸人(貸主) | 日焼けによる壁紙変色、フローリングの軽微な傷など |
| 賃借人の故意・過失による損傷 | 賃借人(借主) | タバコのヤニ汚れ、ペットの引っかき傷、釘穴など |
2020年の民法改正で民法621条が新設され、「通常の使用・収益によって生じた損耗や経年変化は原状回復義務に含まれない」ことが法律上も明確になりました。これ以前は、特約で「退去時のクリーニング費用は借主全額負担」などの条件が盛り込まれたケースで、負担範囲が不明確なまま工事が発注されることもありました。
建築業者として原状回復工事を受注する際は、誰が発注者か(賃貸人か賃借人か)によって後のトラブル発生リスクが変わります。賃借人が発注し、費用を「賃貸人が負担するはずだから後で請求してほしい」と言うケースでは、代金回収のリスクが生じます。賃借人の負担範囲か賃貸人の負担範囲かをあらかじめ確認した上で受注するのが基本です。
また、改正民法では「修繕積立金は賃料の対価として賃貸人が積み立てるものであり、賃借人に負担させることはできない」という考え方も明確化されています。この区別を知っていると、見積り提示の際の根拠として活用できます。
参考:国土交通省の原状回復ガイドラインの詳細
原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)- 国土交通省
建築業界で長年働いていると、「工事の依頼主が誰か」を当然のように確認しているようで、実は賃貸借契約の立場の違いまで踏み込んで確認していないことがあります。これは意外ですね。
たとえば、店舗や事務所の内装工事を依頼してくる法人テナント(賃借人)の場合、以下のような落とし穴が現場で起きています。
特にサブリース(転貸借)物件での注意は欠かせません。サブリースの場合、物件の所有者・元の賃貸人・転貸人・転借人(最終的な入居者)が別々に存在します。建築業者が工事を依頼されたとき、その依頼者が「元の所有者」なのか「転貸人(管理会社)」なのかで、工事費用の最終的な回収先・回収リスクがまったく異なります。
受注前に確認しておきたいチェックリストとして、次の4点が有効です。
代金回収リスクを減らすための現実的な手段として、工事着手前に着手金を受け取る、または請負金額100万円以上の案件では「工事代金支払いに関する確認書」を賃貸人・賃借人の双方から取得するという方法があります。着手金の受領を標準化している建築会社では、代金未回収トラブルの件数が大幅に減少するケースが報告されています。
また、工事請負契約書の管理・電子化ツールを活用することで、依頼者の属性(賃貸人か賃借人か)を受注時に記録・確認しやすくなります。現場の職人ではなく、管理担当者が契約書をチェックする体制があると、こうした見落としは大幅に防げます。つまり受注前の確認体制が命綱です。
参考:賃貸住宅管理業法(サブリース規制を含む)の概要
適正化のための措置(サブリース関連) - 国土交通省