
電気化学インピーダンス分光法(EIS:Electrochemical Impedance Spectroscopy)は、電気化学システムに小振幅の正弦波電位または電流の摂動を適用し、対応する応答を測定してインピーダンススペクトルを生成する技術です。この手法は電極プロセスと表面現象の動力学研究に広く使用されており、近年では周波数応答アナライザの発展によって測定精度が大幅に向上しています。
参考)電気化学インピーダンス分光法(EIS)
EIS技術では異なる周波数でのインピーダンスの実数部Z'、虚数部Z"、係数|Z|、位相角を測定し、これらをナイキスト線図やボード線図として視覚化します。ナイキスト線図では横軸に実数部、縦軸に虚数部をプロットし、電気化学システムの等価回路モデルを推定できます
参考)電気化学インピーダンス分光法 (EIS) - PalmSen…
。一方、ボード線図は周波数に対するインピーダンスの大きさと位相角の変化を対数スケールで表示し、広い周波数範囲での挙動を把握できます
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsssj/33/2/33_2_64/_pdf
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電気化学インピーダンス法は比較的非破壊で電極およびセルの構造・特性を調べることができるため、中心的な電気化学測定法の一つとなっています。入力信号として正弦波交流信号を電極に与え、周波数を変調することでインピーダンスのスペクトル解析が実現します。幅広い周波数域で測定したスペクトルでは、複数の時定数分離により電極構造または電極反応プロセスを詳細に調査できます。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/electrochemistry/78/9/78_9_783/_pdf/-char/ja
正確なインピーダンス測定を行うためには、いくつかの重要な前提条件を満たす必要があります。第一に因果関係条件として、出力応答信号は入力摂動信号によってのみ発生することが求められます。第二に線形性条件として、出力応答信号と入力摂動信号の間に線形関係が成立する必要があります。
電気化学システムにおける電流と電位の関係は、本来非線形の動的法則によって決定されます。しかし、小振幅の正弦波電位信号を摂動として適用する場合、電位と電流の関係は線形として近似することが可能です。通常、正弦波電位摂動の振幅は約5mV程度で、10mVを超えないように設定されます。この微小な摂動によって、システムの内部構造に変化を引き起こさず、測定後に元の状態に戻ることができる安定性条件も満たされます。
測定における線形性の確保は、データの信頼性に直結する重要な要素です。摂動振幅が大きすぎると非線形効果が顕著になり、解析結果に誤差が生じます。一方、振幅が小さすぎるとノイズの影響を受けやすくなるため、適切な振幅設定が不可欠です。実際の測定では、予備実験で振幅を変化させながら線形応答範囲を確認することが推奨されます。
参考)正しいインピーダンス測定のための注意事項
ナイキスト線図(Nyquist plot)は、インピーダンスの実数部を横軸、虚数部の負値を縦軸にプロットした図で、電気化学システムの特性を視覚的に理解するための重要なツールです。抵抗器のみの回路では実数軸上の一点として表示され、コンデンサのみの回路では虚数軸と平行な直線として現れます。
抵抗RとコンデンサCが並列に接続された回路では、ナイキスト線図は半径R/2の半円として表されます。この半円の形状から電荷移動抵抗(Rct)や二重層容量(Cd)などの重要なパラメータを直接読み取ることができます。半円の頂点の角周波数から二重層容量の値を取得でき、高周波側の実軸切片から溶液抵抗、低周波側の切片から電荷移動抵抗と溶液抵抗の和が得られます。
電極プロセスが電荷移動プロセスと拡散プロセスの両方によって制御される場合、ナイキスト線図は高周波領域で半円を、低周波領域で45度の直線を示します。高周波領域は電極反応速度論によって制御され、低周波領域は反応物または生成物の拡散によって支配されます。この45度の直線はワールブルグインピーダンスと呼ばれ、拡散制御過程の特徴的な挙動を示します。ただし、電極表面が粗いなどの理由により、実際の測定では45度から外れた角度を示す場合もあります。
ボード線図(Bode plot)は、縦軸と横軸にそれぞれlog|Z|とlog f、およびθとlog fをプロットした二つの図を併記したインピーダンスプロットです。この表示方法は、ナイキスト線図では把握しにくい広範囲の周波数特性を明瞭に可視化できる利点があります
参考)ボードとナイキストプロット - PalmSens
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抵抗Rのみを含む等価回路では、全ての周波数でlog|Z|は一定値となり、位相角θは0度を示します。一方、電気容量Cのみの回路では、log|Z|はlog fに対して-1の傾きを持つ直線となり、θは-90度を示します。RとCの直列回路では、高周波数域でlog|Z|≒log Rとなりθは0度、低周波数域ではコンデンサの影響が支配的になります。
ボード線図の最大の利点は、複雑な電気化学システムにおいて各周波数領域で支配的なプロセスを識別できることです。例えば、ある、ある周波数範囲でlog|Z|の傾きが変化する場合、そこで異なる電気化学プロセスが関与していることを示唆します。また、位相角の変化から容量性成分や誘導性成分の寄与を定量的に評価できるため、等価回路モデルの構築に有用な情報を提供します。実際の材料評価では、ナイキスト線図とボード線図を併用することで、より包括的な解析が可能になります。
電気化学システムは、直列または並列に接続された抵抗器(R)、コンデンサ(C)、インダクタ(L)などの基本要素で構成される等価回路として表現されます。EISを使用することで、これらの要素のサイズを定量的に決定でき、電気化学的意義を利用してシステムの構造と電極プロセスの性質を分析できます。
最も基本的な等価回路は、溶液抵抗Rsと電荷移動抵抗Rct、二重層容量Cdlの並列回路を直列接続したランドル回路(Randles circuit)です。この回路は、電極反応が電荷移動過程によって制御される系をよく表現します。実際の測定データから等価回路パラメータを決定する際には、非線形最小二乗法によるフィッティングが一般的に用いられます。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/denkikagaku/86/Autumn/86_18-TE0005/_pdf/-char/ja
しかし、実際の電気化学システムでは表面の不均一性、電極の粗さ、吸着物の存在などにより「分散効果」が生じ、理想的な容量挙動から逸脱します。このような場合、定位相角要素(CPE:Constant Phase Element)を導入することで、より正確なモデリングが可能になります。CPEは周波数に依存したインピーダンス特性を持ち、理想的なコンデンサ(n=1)から純粋な抵抗(n=0)までの連続的な挙動を表現できます。複雑な系では、複数のRC並列回路を組み合わせたり、ワールブルグインピーダンスを追加したりすることで、測定データをより忠実に再現できます。
建築構造物における最も重要な応用例として、コンクリート内の鉄筋腐食モニタリングがあります。中性化させたコンクリート供試体と中性化させていないコンクリート供試体にプローブ電極を設置してインピーダンススペクトルを測定した研究では、明確な違いが観察されました。
参考)電気化学インピーダンス法を用いた供用中コンクリート構造物の鉄…
中性化していないコンクリート内の電極では、電荷移動抵抗(Rct)が約1400kΩと大きく、不働態皮膜の形成が示唆されました。一方、中性化したコンクリート内の電極ではRctが約80kΩと小さく、中性化していない場合の約1/20程度でした。電気化学試験後の電極表面で腐食箇所が観察され、インピーダンス測定結果と一致していました。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcorr/67/2/67_83/_pdf/-char/ja
建設から35年経過した高速道路の鉄筋コンクリート構造物に対する実構造物での測定でも、プローブ電極のRctのオーダーは中性化していないコンクリート供試体に設置した電極のRctと一致しました。電極近くのコンクリートからコアを採取し、フェノールフタレイン溶液による中性化試験を行った結果、鉄筋と同じ深さのコンクリートは中性化していないことが確認され、インピーダンススペクトルの測定結果と完全に一致しました。この結果から、プローブ電極によってコンクリート内鉄筋の腐食環境を非破壊で評価できることが実証されました。
建築研究所で15年間暴露した試験体を用いた研究では、交流インピーダンス法による測定を行い、実際に破壊して測定した鉄筋の質量減少率や腐食面積率と比較する検証が行われました。その結果、コンクリート表面に取り付けた電極によるインピーダンス測定方法は、実際に破壊して測定した鉄筋の腐食量と類似した傾向を示し、鉄筋の腐食程度を非破壊的に推定できることが確認されました。
参考)https://data.jci-net.or.jp/data_pdf/25/025-01-1269.pdf
鉄筋の腐食状態を把握する交流インピーダンス法では、様々な交流周波数でインピーダンスを測定することで得られるインピーダンススペクトルを解析し、鉄筋腐食の指標となる分極抵抗を算出します。コンクリート中の鉄筋のインピーダンススペクトルを得るための手法として、3電極法や4電極法があります。3電極法では測定機器を直接鉄筋に接続するため印加電流が全て鉄筋に流入し、測定結果を定量的に扱えますが、実際の構造物に適用する際には構造物の一部をはつり出す必要があります。
参考)https://www.pari.go.jp/PDF/Dr.CORR.pdf
一方、4電極法では測定機器と鉄筋を直接接続する必要がないため非破壊での測定が可能です。ただし、鉄筋に流入する電流が不明確となるため、測定結果の解釈が難しいという課題があります。近年では、これらの課題を解決するために、プローブ電極を用いた革新的な測定手法が開発されており、供用中のコンクリート構造物に対しても実用的な腐食診断が可能になっています。建築業従事者にとって、構造物を損傷せずに内部の劣化状態を定量的に評価できるこの技術は、維持管理計画の策定や補修時期の判断に極めて有用です。
参考)鉄筋コンクリートの腐食
防食塗膜の耐食性評価においても、電気化学インピーダンス法は革新的な測定手法として注目されています。従来、塗膜の耐食性は劣化促進試験を行った後に目視によって判定されていましたが、これは主観的評価となりやすく定性的な評価にとどまる欠点がありました。
参考)https://www.aichi-inst.jp/sangyou/research/report/10kg13.pdf
交流インピーダンス法を適用することで、低周波数領域のインピーダンスから定量的に耐食性を評価することが可能になりました。この手法では、従来法と比較して2/3の時間で塗膜劣化の兆候を検知できることが実証されています。塗膜のインピーダンスは、塗膜の劣化に伴って低下する傾向を示し、この変化を追跡することで塗膜の保護性能を定量的に評価できます。
建築構造物の鋼材表面に施された防食塗装の性能評価において、この技術は特に有効です。実使用環境下における塗膜の劣化進行をリアルタイムでモニタリングできるため、最適な補修時期の判断や塗装仕様の選定に役立ちます。また、新規に開発された防食コーティング材料の性能評価にも応用され、Al合金やMg合金、表面処理鋼板などの電気化学特性評価に貢献しています。建築業従事者が防食対策を計画する際、客観的で定量的なデータに基づいた意思決定が可能になる点で、実務上の価値が非常に高い技術です。
参考)https://technofair.web.nitech.ac.jp/wp-content/uploads/2021/10/TF2021_hoshi-yoshinao.pdf
電気化学インピーダンス測定には、周波数応答アナライザ(FRA:Frequency Response Analyzer)が広く使用されており、比較的容易にインピーダンススペクトルを測定することができます。原理的には発振器1台とデジタルマルチメーター2台、および位相計1台があれば測定可能ですが、より手軽に短時間で精度良く測定するためには専用の測定装置が必要です。
参考)電気化学インピーダンス測定の原理
市販のインピーダンスアナライザは、レンタルサービスも提供されており、月額10万円台から利用可能です。例えば、日置電機のIM3570などの機種が建築関連の測定にも使用されています。近年では、コンクリート構造物の現場測定に特化した可搬型の装置も開発されており、「Dr.CORR」のような鉄筋腐食状態を非破壊で測定する専用機器も実用化されています。
参考)インピーダンスアナライザ
測定時の注意点として、正しいインピーダンスデータを得るためには測定セルの設計、電極の前処理、測定条件の最適化などが重要です。特に、電極の接触抵抗やケーブルのインピーダンスが測定結果に影響を与えるため、適切な補正や校正が必要です。また、コンクリート構造物の測定では、測定位置の含水状態や温度などの環境条件も結果に影響するため、標準化された測定プロトコルに従うことが推奨されます。建築業従事者が実務でこの技術を活用する際には、専門機関への測定委託や技術相談を通じて、信頼性の高いデータ取得と適切な解釈を行うことが重要です。
日本防錆技術協会誌における供用中コンクリート構造物の電気化学インピーダンス法を用いた鉄筋腐食モニタリング研究
電気化学インピーダンス分光法(EIS)の測定原理と解析手法の詳細解説
東洋システムによる電気化学インピーダンス測定の原理と実践的な測定ガイド
港湾空港技術研究所が開発したコンクリート中鉄筋の腐食状態を非破壊で測定する『Dr.CORR』の技術資料