

建築・不動産業界に身を置くプロフェッショナルであっても、日常的に急傾斜地案件を扱わない限り、「土砂災害防止法」に基づく区域指定の細かな定義を即答するのは難しいかもしれません。しかし、顧客の資産価値や生命に直結するこの法律は、重要事項説明等の局面で極めて重大な意味を持ちます。まず押さえておくべきは、通称「イエローゾーン(土砂災害警戒区域)」と「レッドゾーン(土砂災害特別警戒区域)」の法的拘束力の決定的な差です。
イエローゾーンは、文字通り「警戒」を促す区域であり、主な義務は「警戒避難体制の整備」にとどまります 。具体的には、ハザードマップへの記載や、要配慮者利用施設における避難確保計画の作成などが求められますが、建築確認申請そのものに対する直接的な許認可のハードルはさほど高くありません。不動産取引においても、重要事項説明で「区域内にある旨」を伝えれば、取引自体はスムーズに進むことが一般的です。
参考)【ホームズ】土砂災害警戒区域とは? 新築する際に知っておきた…
対照的に、レッドゾーン(特別警戒区域)は「住民の生命または身体に著しい危害が生じるおそれがある」と認定されたエリアであり、ここに指定されると土地利用の自由度は劇的に制限されます 。最大の違いは、特定の開発行為に対する許可制(都道府県知事の許可が必要)と、建築物の構造規制が課される点です。これは単なる「注意喚起」のレベルを超え、物理的な建築スペックに対して法的強制力が働くことを意味します。実務上、レッドゾーン内の土地は「原則として住宅等の建築が困難、または多大なコストがかかる土地」と見なされるため、我々建築従事者は、対象地がどちらのゾーンに該当するかを、都市計画図や各自治体の防災マップで数メートル単位の精度で確認する必要があります 。
参考)土砂災害「特別」警戒区域について簡単に説明します~レッドゾー…
レッドゾーン内で居室を有する建築物を新築・増築・改築する場合、建築基準法施行令第80条の3に基づく厳しい構造規制をクリアしなければなりません 。これは建築確認申請において最も神経を使う部分の一つであり、通常の仕様規定では適合しないケースがほとんどです。
参考)https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/life/626149_3466803_misc.pdf
具体的には、土石流や地滑りが発生した際に、建築物が倒壊せず、居住者の安全を確保できる構造であることが求められます。法律では、土砂等が到達し、建築物に作用すると想定される力(衝撃力等)に対して、構造耐力上主要な部分が安全であることの証明が必要です 。これを満たすための一般的な手法として、急傾斜地に面する外壁を「鉄筋コンクリート造(RC造)」にすることが義務付けられます 。
参考)https://www.mlit.go.jp/notice/noticedata/pdf/201703/00006513.pdf
さらに細かな技術基準として、国土交通省告示(平成13年告示第383号等)により、以下のような仕様が求められることが一般的です 。
参考)https://www.city.ota.gunma.jp/uploaded/attachment/3838.pdf
木造住宅を計画している場合でも、基礎を高く立ち上げて「待受擁壁」のような機能を基礎一体型で持たせるか、あるいは建物の一部(山側の1階部分など)をRC造の混構造にするなどの設計変更が不可欠となります。これにより、建築コストは通常の木造住宅と比較して坪単価で数万〜数十万円単位で跳ね上がる可能性があり、施主への予算説明において非常に重要なファクターとなります 。
参考)http://www.kumashikai.or.jp/wp/wp-content/uploads/2021/06/afeebae617387cf5265f4314ab1c2c76.pdf
レッドゾーン指定がもたらす経済的なインパクトは、建築費の高騰だけではありません。土地そのものの資産価値評価において、極めて厳しい減価がなされるという現実を直視する必要があります。これは、相続税評価額と実勢価格(市場価格)の双方において顕著です。
まず、公的な評価である相続税評価額についてですが、国税庁の財産評価基本通達では、土砂災害特別警戒区域に含まれる宅地に対して「特別警戒区域補正率」を適用することができます 。補正率は、その宅地の総地積に対するレッドゾーン部分の割合によって決まりますが、一般的には評価額から**10%〜30%程度の減額(補正率0.7〜0.9)**が認められています 。これにより、相続時には一定の節税効果があるように見えますが、これはあくまで税務上の措置に過ぎません。
参考)レッドゾーン(土砂災害特別警戒区域)の指定で土地価値はどこま…
より深刻なのは、不動産市場における実勢価格(売買価格)の暴落です。レッドゾーンに指定されているという事実は、買い手にとって「生命の危険」と「建築コストの増大」という二重のリスクを意味します。そのため、実際の取引現場では、公的な減価率を遥かに超える50%〜70%もの価格下落が見られるケースも珍しくありません 。最悪の場合、「価格がつかない」「買い手が全くつかない」という流動性リスクに直面します。
特に、銀行等の金融機関はレッドゾーン内の物件に対する融資審査を厳格化する傾向にあります。担保評価が出にくいため、購入希望者が住宅ローンを組めない事態が発生し、これがさらに売り手市場を冷え込ませる要因となっています 。建築従事者として土地探しから依頼された場合、安易に「安い土地」としてレッドゾーン物件を提案することは、将来的な資産価値の損失(出口戦略の欠如)を顧客に負わせることになりかねないため、慎重な判断と説明責任が求められます。
参考)土砂災害特別警戒区域内にある土地の相続税評価額は大幅減額が可…
一度レッドゾーンに指定された土地は、未来永劫そのままであるとは限りません。適切な「土砂災害対策工事」を実施し、安全性が確保されたと都道府県知事が認めれば、指定解除(またはイエローゾーンへの格下げ)が可能になります 。これは土地の資産価値を回復させる唯一かつ最大の手段ですが、そのハードルは技術的にも資金的にも極めて高いのが実情です。
参考)https://isabou.net/Convenience/aviso/news_20171005.asp
指定解除のためには、ハード対策として強固な「擁壁」や「砂防堰堤」の設置が必要です。単に崖をコンクリートで固めれば良いというわけではなく、土砂災害防止法に基づく技術基準を満たす構造物でなければなりません。ここで求められるのは、想定される土石流の衝撃力や土圧に対して完全に耐えうる構造計算に基づいた設計です。
近年では、従来の巨大なコンクリート擁壁だけでなく、「ユニットネット工法」のような、比較的施工性が良く景観を損なわない高強度のネットフェンスを用いた対策も採用され始めていますが、これも自治体の判断基準に依存します 。
参考)土砂災害特別警戒区域(レッドゾーン)解除の施工事例紹介:ユニ…
これらの工事費用は、数千万円から規模によっては億単位になることもあり、個人の地主単独で負担するのは非現実的です。そのため、近隣住民と協力して要望書を提出し、自治体の「急傾斜地崩壊対策事業」などの公共事業として採択してもらうプロセスが一般的です。ただし、公共事業としての採択には「保全対象人家が○戸以上あること」などの要件があり、時間も数年単位でかかります。建築従事者としては、こうした解除に向けた行政手続きや助成金制度(住宅・建築物安全ストック形成事業など)の知識を持っておくことで、既存不適格物件の建替え相談等において、他社と差別化された提案が可能になります 。
参考)https://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/portal/kaisetsu/keikaihelp/05_08.htm
宅地建物取引業法において、対象不動産が土砂災害警戒区域(イエロー)や特別警戒区域(レッド)内にあるかどうかは、重要事項説明書(35条書面)への記載および説明が義務付けられている絶対的な項目です 。しかし、単に「入っています」と伝えるだけでは、専門家としての責任を果たしたとは言えません。
参考)重要事項説明書に記載されている「造成宅地防災区域」「土砂災害…
建築士や施工管理者が関与する場合、重要事項説明の補足として、より技術的なリスク説明を行うべきです。例えば、「現在はこの規制で建てられるが、将来的な法改正や区域の見直しで再建築不可になるリスクがあるか」「既存不適格建築物となった場合、増改築時にどの程度の遡及適用(既存遡及)を受けるか」といった点です。特にレッドゾーン内にある既存住宅(中古物件)のリノベーションを行う際は要注意です。確認申請を伴わない大規模修繕であっても、自治体によっては条例でレッドゾーン特有の安全条例を設けている場合があり、安易に見積もりを出すと後で法的な是正工事が必要になり、大赤字になるリスクがあります 。
参考)土砂災害区域の不動産売買はできるの?
また、賃貸物件の仲介や建設においても、2020年の宅建業法施行規則改正により、水害ハザードマップの説明が義務化されましたが、土砂災害についても同様にハザードマップを提示しながら、具体的な避難経路や避難場所まで言及することが推奨されます 。
参考)【必見】土砂災害警戒区域(レッド・イエロー)物件の不動産売却…
さらに、「勧告による移転」という制度も理解しておく必要があります。都道府県知事は、レッドゾーン内の著しく危険な建築物の所有者に対し、移転を勧告することができます(土砂災害防止法第26条)。この場合、融資や移転費用の補助制度(住宅金融支援機構の特別融資など)が使える可能性があります 。顧客が「危険だと分かっているが、資金がなくて引っ越せない」と悩んでいる場合、こうしたセーフティネットの情報を提示できるかどうかが、信頼されるプロフェッショナルかどうかの分かれ目となります。