

日本の建設現場において、土地や建物の所有権が「いつ」発注者に移るのか、正確に答えることができる現場監督や建築士は意外に少ないのが実情です。これは単に知識不足というよりも、日本の民法自体が抱える歴史的な矛盾に原因があります。この矛盾こそが「フランス法」と「ドイツ法」の設計思想の違いであり、日本の建築実務における「引き渡し」の重要性を不必要に高めている要因でもあります。
まず、フランス法(ナポレオン法典)における物権変動の考え方を見てみましょう。フランス法では「意思主義」という原則を採用しています 。これは、「売ります」「買います」という当事者の意思が合致した瞬間に、所有権が移転するという考え方です。契約書にハンコを押した瞬間、あるいは口頭で合意した瞬間に、建物は発注者のものになるという非常にシンプルな、しかし性善説に基づいたロマンチックなとも言える規定です。フランス革命の精神である「個人の自由」を最大限に尊重し、国家による形式的な介入を嫌う思想が背景にあります 。
参考)https://www.mlit.go.jp/pri/kikanshi/pdf/2017/64-1.pdf
一方で、ドイツ法(ドイツ民法典 BGB)は「形式主義」を採用しています。ドイツ法においては、当事者の合意だけでは所有権は移転しません。不動産であれば「登記」、動産であれば「引き渡し」という、外部から認識できる「形式」を備えた時点ではじめて権利が移動します 。これは「取引の安全」を重視するゲルマン法由来の考え方であり、誰の目にも明らかな形式を要求することで、二重譲渡などのトラブルを未然に防ごうとする論理的でシステム化されたアプローチです。
参考)https://www.moj.go.jp/content/001289334.pdf
日本の民法は、この二つの全く異なるシステムを継ぎ接ぎして作られました。明治初期、ボアソナードによって起草された旧民法はフランス法の影響を色濃く受けていました。しかし、その後の「民法典論争」を経て、成立した現行民法はドイツ法のパンデクテン方式(体系化された条文構成)を採用しました 。
参考)https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/17689/files/houkadaigakuinronshu_26_45.pdf
その結果、日本の民法176条では「物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる」としてフランス流の意思主義を宣言しているにもかかわらず、直後の177条では「登記をしなければ、第三者に対抗することができない」として、実質的にドイツ流の対抗要件主義(形式重視)を求めているのです 。
参考)【宅建民法を攻略】公示の原則~民法177条における第三者とは…
建築現場でこれがどのような問題を引き起こすかというと、例えば工事中に工務店が倒産した場合などです。「契約した時点で所有権は施主に移っている(176条・フランス流)」はずなのに、「登記や引き渡しが済んでいないから、工務店の財産として差し押さえられる(177条・ドイツ流の影響)」という事態が発生し得るのです。日本の建築契約約款で「所有権の移転時期」について、「部分払いの時」や「引渡しの時」とわざわざ特約で細かく規定しなければならないのは、この民法上の「フランス法とドイツ法のツギハギ」による曖昧さを契約書で強制的に修正・確定させる必要があるからなのです。
民法(債権関係)の改正に関する説明資料 - 法務省(契約不適合責任への転換の背景が理解できます)
建築業界に長く身を置く方であれば、2020年(令和2年)4月の民法改正が大きな衝撃だったことは記憶に新しいでしょう。長年親しまれてきた「瑕疵(かし)担保責任」という言葉が廃止され、「契約不適合責任」という用語に変わりました。実はこの変更こそが、日本の建築法制が「フランス法的な考え方」から「ドイツ法的な考え方」へと完全に舵を切った歴史的転換点だったのです。
旧民法における「瑕疵担保責任」は、フランス法の影響を強く受けていました。フランス法における「vice caché(隠れた欠陥)」という概念が元になっています 。これは「特定物(その家、その土地)」の売買において、契約当時にはわからなかった「隠れた欠陥」があった場合、売主は過失がなくても責任を負うという制度でした。「契約違反ではないが、法が定めた特別な責任(法定責任説)」という解釈が一般的でした。この考え方の根底には、「特定物は世界に一つしかないのだから、代わりのものを用意することはできない。だから、欠陥があれば金銭で解決するか、契約を解除するしかない」というロジックがありました。
参考)https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/05-1/Fukumoto.pdf
しかし、現代の建築現場、特にハウスメーカーによる住宅建築などは、工業製品に近い性質を帯びており、「代替可能な履行」と考えられる場面が増えています。ここで登場するのがドイツ法的な考え方です。ドイツ法では、欠陥があるものを引き渡すことは、そもそも「完全なものを引き渡す義務」を果たしていないと考えます。つまり、特別な法定責任ではなく、単なる「債務不履行(契約違反)」の一種として扱うのです 。
参考)https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/05000340/05000340_001_BUP_0.pdf
2020年の改正で導入された「契約不適合責任」は、まさにこのドイツ法的な「債務不履行説」を採用したものです。これにより、建築主(発注者)が請求できる権利の範囲が劇的に変わりました。
この変化は、実務的には「隠れているかどうか(隠れた瑕疵)」が要件ではなくなったことを意味します。旧法のフランス流では「隠れた」ものであることが重要でしたが、新法のドイツ流では「契約の内容と適合しているか」だけが基準になります。つまり、建築従事者にとっては、「契約書(設計図書含む)に何を書いたか」が以前にも増して決定的に重要になったのです。曖昧な口約束や、現場判断での仕様変更が、即座に「契約不適合」として責任追及されるリスクが高まりました。これは体系と論理を重んじるドイツ法思想が、情緒的なフランス法思想を実務面で上書きした結果と言えるでしょう。
住宅瑕疵担保履行法および住まいの安心総合支援サイト - 国土交通省(瑕疵担保責任の実務的な定義が確認できます)
建築業者が最も恐れることの一つが「工事代金の未回収」です。施主が倒産した場合、建てた建物から優先的に代金を回収する手段はあるのでしょうか?ここにも、フランス法とドイツ法の興味深い対立と、日本法における「使いにくさ」の秘密が隠されています。
日本の民法には「不動産工事の先取特権(さきどりとっけん)」という権利が存在します(民法327条)。これは、工事によって建物の価値が増加した場合、その増加分について、他の債権者(銀行など)よりも優先して工事代金を回収できるという非常に強力な権利です。実は、この「先取特権」という制度自体が、典型的なフランス法由来の制度です 。
参考)https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-18819001-0401.pdf
フランス法では、特定の債権者(労働者や建築業者など、保護すべき人)に対して、登録がなくても、あるいは簡易な手続きで強力な優先権(Privilège)を与えます。「汗をかいた人間は報われるべきだ」という、人権や衡平を重視するフランス革命的な思想が見て取れます。
一方で、日本の金融実務で圧倒的な力を持つのは「抵当権」です。銀行が融資をする際に設定する抵当権は、ドイツ法の影響を強く受けた制度です。ドイツ法では、公示(登記)の順位がすべてです。「先に登記したものが勝つ」という冷徹かつ明確なルール(形式主義)が支配しています。
ここで日本の民法の悲劇的な「ねじれ」が発生します。
日本民法は、フランス由来の「工事の先取特権」を認めつつも、その効力発生要件にはドイツ由来の厳格な「登記」を求めてしまったのです(民法338条)。具体的には、「工事を始める前に費用の予算額を登記しなければならない」という極めてハードルの高い条件が課されています。
この結果、日本の実務では「工事の先取特権」はほとんど使われていません。工事着工前に施主に対して「あなたが倒産したときのために登記させてください」とは言いにくいうえ、銀行も自分たちの抵当権より前に別の権利が入ることを嫌うからです。結果として、フランス法の「弱者保護」の理念が、ドイツ法の「形式重視」のルールの前で無力化してしまっているのが、日本の工事代金確保の現状なのです。もし日本が完全にフランス法寄りであれば、登記なしでも建築業者が守られたかもしれませんし、完全にドイツ法寄りであれば「法定抵当権」のような別の仕組み(ドイツの建設手工業者担保抵当など)が整備されていたかもしれません。
法律の話が続きましたが、最後に少し視点を変えて、土木・建築の現場そのものにおける「フランス」と「ドイツ」の違いについて触れておきましょう。実は、トンネル工事(山岳トンネル工法)の世界にも、かつて「フランス式」と「ドイツ式」と呼ばれる明確な工法の違いが存在していました。法律と同じく、そこにはお国柄とも言える「思想の違い」が表れています。
19世紀から20世紀初頭にかけてのトンネル掘削方法は、支保工(トンネルが崩れないように支える枠組み)の組み方によって国ごとの名称が付けられていました。
現在、日本の山岳トンネル工事の主流はNATM(ナトム)工法となり、これらの古典的な「国別メソッド」は使われなくなりました。しかし、NATM工法自体がオーストリア(ドイツ語圏)で体系化された理論に基づいていることは興味深い事実です。
日本の建築・土木は、技術的には欧米の様々な手法を取り入れてきましたが、法律(契約)の世界でも同様に、フランス的な「理想・権利」とドイツ的な「論理・形式」の間で揺れ動きながら発展してきました。現場監督として契約書や約款を読む際、「この条項は形式を重んじるドイツ流だな」「この部分は救済を重視するフランス流だな」と背景を想像することで、無味乾燥な条文の意図がより深く理解できるはずです。特に、トラブル発生時の「責任の所在」を考える上では、現在の日本法が(契約不適合責任に見られるように)より「ドイツ的な論理」にシフトしていることを意識しておくことが、自身と会社を守る盾となるでしょう。