

施工後の建材から出るVOCを「換気すれば大丈夫」と思っているなら、あなたは作業員の健康リスクを見落としているかもしれません。
ガスクロマトグラフ質量分析(GC-MS)は、簡単に言えば「混合物の成分を1つずつバラして、それぞれの正体を突き止める」装置です。名前が長くて難しそうに見えますが、仕組みを分解すると理解しやすくなります。
GC-MSは2つの装置が一体になっています。前段の「GC(ガスクロマトグラフ)」が担うのは"成分の分離"であり、後段の「MS(質量分析計)」が担うのは"成分の同定・定量"です。
GC部では、まず試料を加熱して気化させます。気化したガスはヘリウムなどのキャリアガスに乗せられ、長さ10〜100mの非常に細いキャピラリーカラム(内径0.1〜0.5mm)の中を進んでいきます。カラムの長さは一般的な10mのものを丸めるとテニスコートの端から端まで届く感覚です。それほど長い管の中を、各成分は「固定相との親和性の違い」によって異なるスピードで進むため、成分ごとに順番に分かれて出てきます。つまり"分離"が完了します。
次にMS部では、カラムから出てきた各成分が次々とイオン化されます。イオンは質量(m/z値)によって挙動が変わるため、重さの違いで精密に分けられ、検出されます。その結果として得られるのが「マススペクトル」と呼ばれる成分の"指紋"のようなデータです。このマススペクトルを、60〜70万件もの化合物データが収録されたライブラリと照合することで、未知の成分でも短時間で同定できます。
つまりGC-MSが得意なのはこういうことです。
一般に定性ではppb〜ppmレベル、定量ではppt〜ppbレベルの測定が可能です。1ppbは10億分の1という極めて微量な濃度です。これは25mプールの水(約375トン)の中に、わずか1滴(約0.375g)の成分が入っているのを検出するイメージに相当します。建築業で扱うVOCの室内濃度管理(μg/m³オーダー)には、十分すぎる感度を持っています。
参考:GC-MSの原理と分析事例(株式会社分析センター)
https://www.analysis.co.jp/service/equipment/detail_11.html
GC-MSのデータを実際に目にした建築業の担当者が戸惑うのが、「クロマトグラムとマススペクトル、どちらを見ればいいのか」という点です。結論から言えば、両方をセットで使います。
測定結果はまず「トータルイオンクロマトグラム(TIC)」として表示されます。横軸に検出時間(保持時間)、縦軸に検出強度を取ったグラフです。山(ピーク)の1つひとつが「1種類の成分」に対応しています。例えば室内空気の試料を測定した場合、トルエン・キシレン・エチルベンゼンなどのVOCがそれぞれ異なる時間に検出され、個別のピークとして現れます。
各ピークの下には、そのピークに対応する「マススペクトル」データが存在します。マススペクトルとは、成分をイオン化したときに出てくる「フラグメントイオンのパターン」であり、物質ごとに固有の形状を持っています。これが化学物質の指紋に相当します。このパターンを60〜70万件のライブラリと照合することで、初めて見る物質でも同定が可能になります。
定量分析の場合は少し異なります。あらかじめ濃度が判明している標準物質を使って検量線(濃度とピーク面積の関係式)を作成しておきます。その検量線に実測のピーク面積を当てはめることで、試料中の各成分の濃度を計算する仕組みです。建材のVOC分析では、トルエンの検量線をベースに他の成分を換算する方法が採られることもあります。
GC-MSのオーブン(カラムを収めた炉)は最高350℃まで昇温でき、沸点が比較的高い化合物も気化・分離できます。一方、室温では気化しない樹脂や塗料などの固体建材を分析する場合は「熱分解法」と呼ばれる方法を用います。600℃程度の高温で試料を熱分解してガス化し、その分解ガスをGC-MSで分析することで、固体材料の化学組成も把握できます。これは使いやすい手法です。
参考:GC-MSの仕組みをわかりやすく解説(日産アーク株式会社)
https://www.nissan-arc.co.jp/services/mst001/
建築業とGC-MSの接点で最も大きいのは、シックハウス対策に関わるVOC(揮発性有機化合物)および建材からの放散物質の分析です。建築現場でGC-MSが使われる場面を整理しましょう。
| 分析場面 | 主な分析対象物質 | GC-MSの役割 |
|---|---|---|
| 竣工前の室内空気測定 | ホルムアルデヒド、トルエン、キシレン等 | VOC濃度の定量・指針値との比較 |
| 建材の放散速度測定 | VOC類(TENAX-TA捕集管で採取) | 加熱脱着型GC-MSで成分特定・定量 |
| 塗料・接着剤の成分分析 | 有機溶剤・残留モノマー | 製品中の化学物質の種類と量を把握 |
| 解体現場の環境モニタリング | アスベスト代替物・有機汚染物質 | 作業環境の安全確認のための同定分析 |
厚生労働省は、シックハウス対策として13物質の室内濃度指針値を策定しています。代表的なものを挙げると次の通りです。
これらの物質が指針値を超えていないかを確認するために使われるのが、加熱脱着型GC-MSです。捕集管(TENAX-TA)で採取した空気サンプルを加熱して脱着し、GC-MSで一斉分析する方法は、建材メーカーや建設会社の品質管理で広く採用されています。
建材からの放散速度を正確に測定するには「小型チャンバー法」が用いられます。建材をチャンバー(密閉容器)に入れて清浄空気を流し、チャンバー出口に捕集管を取り付けて放散ガスを集める方法です。測定した放散速度(単位:μg/m²・h)と使用面積・換気回数を組み合わせれば、実際の建物内の室内濃度を事前に予測できます。これは大きなメリットです。
参考:建材から放散される室内空気汚染物質の測定方法(大阪府立産業技術総合研究所 技術シート)
https://orist.jp/technicalsheet/2011.PDF
GC-MSには上位技術として「GC-MS/MS(タンデム質量分析)」があります。建築分析の現場でどちらを使えばよいか、違いを把握しておくことが重要です。
GC-MSでは、MSの過程が「1段階」です。つまり、GCで分離した成分をそのままイオン化・検出します。GC-MS/MSでは、1回目の質量分析でターゲットイオンを選び出し、さらにそのイオンを衝突させてフラグメント化したものを2回目の質量分析にかけます。2段階です。
この違いが実際に問題になるのは、「複雑なマトリックス(夾雑物が多い試料)で微量成分を拾いたいとき」です。たとえば解体現場の土壌から採取した試料には、さまざまな有機物が混在しています。GC-MSではノイズが大きくなり、目的物質のピークが埋もれてしまうことがあります。GC-MS/MSなら夾雑物の影響を2段階のフィルタリングで大幅に排除でき、安定した感度で分析できます。
建築分野での使い分けのポイントをまとめると次のようになります。
最近は土壌汚染対策法関連の調査でPFAS(ペルフルオロアルキル化合物)の分析ニーズが高まっており、建設会社の地盤調査に関わる場面でGC-MS/MSが使われるケースが増えています。覚えておくと役立ちます。
参考:GC-MSとGC-MS/MSの基礎と用途解説(AZサイエンス)
https://azscience.jp/column/category/top01-sub04/
「VOC測定は義務なのか?」という疑問は建築業者がよく持つ疑問の一つです。正確に把握しておく必要があります。
まず建築基準法(平成15年7月施行)のシックハウス対策規制が義務化しているのは、次の3点です。
つまり建築基準法は「室内のVOC濃度を測定すること」を義務化しているわけではありません。義務ではないということです。
ただし例外があります。学校保健法(学校環境衛生基準)では、学校施設でホルムアルデヒドとトルエンの年1回定期測定が義務付けられています。また横浜市などの自治体では、公共建築物について竣工後の引き渡し前にVOC濃度測定を行うことをガイドラインで義務付けている場合があります。
VOC測定(GC-MS分析を含む)を外部の測定・分析会社に依頼した場合の費用感は以下のとおりです。
| 測定方法 | 測定費(1式) | 分析費(1箇所当たり) |
|---|---|---|
| パッシブ法 | 約30,000円 | |
| アクティブ法 | 約35,000円 | 約30,000円 |
例えば東京都内の建物でパッシブ法による3箇所測定を行う場合、測定費30,000円+分析費90,000円(30,000円×3)で合計120,000円程度が目安になります。GC/MS法による捕集管の単体分析は21,000円/個という事例も報告されています。
費用を抑えたい場合は「測定は自社で行い、分析のみ外注する」サービスもあります。ただし採取方法の手順を誤ると測定精度が落ちるリスクがあります。特に「5時間以上の室内閉鎖」「二重測定(同時に2検体採取)」など手順の条件は厳守が必要です。測定の正確さが条件です。
初めて対応する場合は、測定から分析・報告書作成までをワンストップで行える専門業者に依頼することをおすすめします。報告書の書式や測定根拠の整理が、後からクライアントへの説明責任に直結するためです。
参考:VOC測定の義務・方法・費用について(株式会社東和総合サービス)
https://www.to-wa.info/contents/2990/
竣工後の室内空気測定ばかりが注目されますが、実は「施工中の建設現場」こそVOC濃度が高くなりやすい局面であることはあまり知られていません。
新築・改修工事の施工中は、接着剤・塗料・シーリング材が同時に大量に使われます。これらの材料からはトルエン、キシレン、エチルベンゼンなどのVOCが急速に揮発します。そのうえ建物がまだ完全に密閉されていない時期は換気が制御できず、作業員が高濃度のVOCにさらされるリスクが生じます。厚生労働省のシックハウス相談マニュアルでも、「工事に伴って建材や接着剤・塗料等から放散されるVOCの濃度が高い住宅において一時的に健康障害が起きる」ことが明記されています。
建設現場のVOCリスクを見落とさないための実践的なアプローチとして、近年は「建材選定段階でのGC-MS分析」を取り入れる建設会社が増えています。購入前・施工前の段階で建材サンプルをGC-MSで分析し、VOCの種類・量・放散速度を把握しておくことで、現場での換気計画や作業スケジュールを事前に最適化できます。
具体的には次のような行動につながります。
ホルムアルデヒドの指針値は100μg/m³(0.08 ppm)ですが、施工直後の密閉空間ではこれを大幅に上回る濃度が発生することがあります。トルエンの指針値(260μg/m³)と比較しても、塗料溶剤を多量に使う工程では局所的に数十倍の濃度になりうることは業界内でもあまり共有されていません。危険なことです。
建設現場の作業環境管理という観点では、GC-MSは「竣工後に使うもの」から「施工計画の立案段階から活用するもの」へ、その位置づけを広げていく価値があります。これが建築業のプロとしての先進的な取り組みの1つと言えます。
参考:建築基準法に基づくシックハウス対策(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/build/jutakukentiku_house_tk_000043.html