

建設業に携わる方であれば、安全大会や朝礼で一度は耳にしたことがある「ハインリッヒの法則」。この法則は、労働災害防止のバイブルとも言える重要な経験則です。アメリカの損害保険会社の安全技師であったハーバート・W・ハインリッヒが、5000件以上の労働災害事例を統計分析し、1931年に提唱しました。その核心となるのが「1:29:300」という比率です。
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この比率が意味するのは、1件の重大災害(死亡や重傷)の背後には、29件の軽微な災害(軽傷)が存在し、さらにその背景には300件もの「ヒヤリハット(傷害はないがヒヤリとした、ハッとした事例)」が潜んでいるという事実です。建設現場において、たとえば「足場から工具を落として通行人に当たりそうになった」というヒヤリハットがあったとします。これは怪我人が出なかったため「運が良かった」で済ませてしまいがちですが、ハインリッヒの法則によれば、こうしたヒヤリハットを300回繰り返すと、いずれは取り返しのつかない重大事故が1回発生する確率になるのです。
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建設業は他産業と比較しても死亡災害の発生率が高く、高所作業や重量物を扱う環境から、些細なミスが命取りになりやすい特徴があります。そのため、ハインリッヒの法則は単なる数字遊びではなく、「300のヒヤリハットをいかにして潰すか」という、現場の命を守るための具体的な行動指針として理解する必要があります。「何も起きなかったからヨシ」ではなく、「何かが起きる前兆だった」と捉える意識改革こそが、この法則を学ぶ第一歩です。
参考)ハインリッヒの法則とは?ヒヤリハットの事例や予防方法も解説
建設現場の災害防止におけるハインリッヒの法則の重要性を解説しているリンクです。
建設現場で起きるヒヤリハットの事例と3つの安全対策を徹底解説
では、建設現場におけるハインリッヒの法則の「300のヒヤリハット」にはどのような具体例があるのでしょうか。職種や工程ごとに無数に存在しますが、ここでは特に事故発生頻度の高い「足場作業」と「重機作業」に焦点を当てて見ていきます。これらの事例は、明日あなたの現場で起こるかもしれないリアルな警告です。
まず足場作業における具体例です。最も多いのは「墜落・転落」に関わるヒヤリハットです。「足場の作業床に置いてあった番線につまずき、バランスを崩して手すりにしがみついた」という事例は典型です。これは転倒災害の「29」の一部かもしれませんし、もし手すりが不完全であれば「1」の重大事故(転落死)に直結していたでしょう。また、「解体作業中に足場板の爪が外れかけ、踏んだ瞬間に板が跳ね上がった」という事例も報告されています。これらは、不安全な状態(足場の不備)と不安全な行動(確認不足)が重なった結果です。
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重機作業においては、「接触・挟まれ」のヒヤリハットが多発しています。「バックホウの旋回範囲内で作業をしていて、カウンターウェイトがヘルメットをかすめた」や、「クレーンで資材を吊り上げ中、玉掛けワイヤーが張り詰めた瞬間に荷が振れ、作業員に激突しそうになった」といった事例です。これらはすべて、ハインリッヒの法則における底辺の「300」に該当します。現場では「危ねえな!」と怒鳴り声が上がって終わることも多いシーンですが、これらを放置することが、統計的に次の重大災害を招いているのです。
建設業特有のヒヤリハット事例をイラスト付きで確認できる資料です。
見せます・出します「ヒヤリハット事例」(厚生労働省)
ハインリッヒの法則とセットで語られることが多いのが「ドミノ理論」です。これは災害が発生するプロセスを5枚のドミノ倒しに例えたもので、事故防止のメカニズムを視覚的に理解するのに役立ちます。ハインリッヒは、災害は以下の5つの要因が連鎖して起こると説きました。
参考)https://jp.indeed.com/career-advice/career-development/heinrich-law
・第一のドミノ:社会的環境・遺伝的要素(性格や育ちなど)
・第二のドミノ:個人的欠陥(短気、不注意、無謀など)
・第三のドミノ:不安全行動・不安全状態(ルール無視、設備の不備)
・第四のドミノ:事故(墜落、挟まれなど)
・第五のドミノ:災害(怪我、死亡)
この理論の画期的な点は、「災害(第五のドミノ)」を防ぐために、全てのドミノを止める必要はないと示したことです。ハインリッヒは、真ん中にある「第三のドミノ」、つまり「不安全行動・不安全状態」さえ取り除けば、たとえ個人の資質に問題があったとしても、事故と災害への連鎖は断ち切れると提唱しました。建設現場に置き換えると、「急いでいて焦る性格(第二のドミノ)」の作業員がいたとしても、「手すりのない足場で作業する(不安全状態)」や「安全帯を使わずに身を乗り出す(不安全行動)」という第三のドミノを除去すれば、転落事故は起きないということです。
参考)ハインリッヒの法則とは? 具体例やヒヤリハットの原因を簡単に…
現場監督や職長が注力すべきは、作業員の性格を矯正することではありません。性格を変えるのは困難ですが、「不安全行動」を指摘し、「不安全状態」を改善することは可能です。ハインリッヒの法則が教える「300のヒヤリハット」の多くは、この第三のドミノに該当します。ここを集中的に管理・排除することが、ドミノの連鎖を止め、現場の安全を守る最短ルートなのです。
ドミノ理論とハインリッヒの法則の関係性を図解で学べる解説です。
ハインリッヒの法則とは?ヒヤリハットから重大事故を防ぐメカニズム
ハインリッヒの法則は有名ですが、その進化版とも言える「バードの法則」をご存知でしょうか。これは1969年にフランク・バードが175万件以上の事故報告を分析して提唱したもので、「1:10:30:600」という比率で知られています。ハインリッヒの法則との決定的な違いは、「物損事故」が含まれている点にあります。
参考)https://www.issoh.co.jp/column/details/4566/
バードの法則の内訳は以下の通りです。
・1件の重傷事故
・10件の軽傷事故
・30件の物損事故(設備や資材の破損のみ)
・600件の無傷害事故(ニアミス、ヒヤリハット)
ここで注目すべきは「30件の物損事故」です。建設現場において、人は怪我をしなくても、資材を落として壊したり、重機を壁にぶつけて修理が必要になったりすることは頻繁にあります。バードの法則は、こうした「怪我のない物損」も重大事故の前兆であることを示唆しています。さらに重要なのが、これに伴う「見えないコスト(氷山の一角)」の概念です。
労働災害が発生した際、治療費や補償費などの「直接コスト」は氷山の一角に過ぎません。水面下には、事故による工期の遅れ、現場の稼働停止、代替要員の確保、企業の社会的信用の失墜、入札資格への悪影響といった、保険では賄いきれない莫大な「間接コスト」が潜んでいます。バードの研究によれば、この間接コストは直接コストの数倍から数十倍に及ぶとされています。
参考)https://ameblo.jp/nakajimanaisou/entry-12540563744.html
「怪我人が出なかったから報告しなくていいや」と物損事故やヒヤリハットを隠蔽することは、企業の利益構造を内側から蝕むシロアリのようなものです。バードの法則とハインリッヒの法則を組み合わせて考えることで、現場の小さなミスが、実は経営を揺るがす巨大な氷山の一部であるという危機感を持つことができるはずです。この「経済的損失」の視点は、経営層や現場代理人が安全投資を決断する際の強力な根拠となります。
バードの法則とハインリッヒの法則の違い、そしてコストへの影響についての詳細です。
バードの法則とハインリッヒの法則の違いと共通点の比較
理論を理解したところで、実際の建設現場でどのようにハインリッヒの法則を活用すればよいのでしょうか。最も効果的かつ即効性があるのは、「ヒヤリハット報告の活性化」と「KY(危険予知)活動の質的向上」です。しかし、ただ「報告しろ」と言うだけでは、現場の職人は動きません。「報告すると怒られる」「面倒くさい」という心理的ハードルがあるからです。
参考)https://believe-recruit.com/articles/202502121047/
現場でハインリッヒの法則を機能させるための具体的なコツをいくつか紹介します。
・「叱らない」ルールの徹底
ヒヤリハット報告は「始末書」ではありません。報告してくれたこと自体を「事故を未然に防ぐ情報を提供してくれた」と賞賛する文化を作ることが重要です。報告者を叱責すれば、次から情報は隠蔽され、氷山の下に潜ってしまいます。
・情報の「見える化」と共有
集まったヒヤリハット情報は、朝礼や新規入場者教育で必ず共有します。「昨日、2階の開口部付近で資材につまずく事例がありました。今日は特に足元に注意してください」と具体的に伝えることで、作業員の脳内にリアルな危険マップを作らせます。これにより、ハインリッヒの法則の「300」をひとつずつ具体的に潰していくことができます。
・Safety-II(レジリエンス)の視点を取り入れる
従来の「何が悪かったか」を追求する安全管理(Safety-I)に加え、「どうやって事故にならずに済んだか」に着目するSafety-IIの考え方も有効です。「バランスを崩したが、手すりをしっかり握っていたから助かった」という事例から、「手すりを握る」という成功要因(強み)を抽出し、それを横展開するのです。
参考)https://kenmane.kensetsu-plaza.com/bookpdf/282/fa_01.pdf
また、ベテラン職人の「慣れ」によるヒヤリハットも見逃せません。脳科学的にも、人間は同じ作業を繰り返すと注意力が低下する「馴化(じゅんか)」という特性を持っています。ベテランほど「いつもの作業」で不安全行動をとりがちです。ハインリッヒの法則を教育に取り入れ、「ベテランこそが300の底辺に近づいているかもしれない」という認識を新たにしてもらうことも、現場管理者の重要な役割です。
参考)https://www.kensaibou.or.jp/safe_tech/leaflet/files/R2_mentalhealth.pdf
最新の安全管理手法であるSafety-IIやDXを活用した取り組みについての解説です。
建設業における安全衛生管理DXの方向性について