

事後保全を選んでいるつもりが、30年後には修繕費が今の2.4倍に膨らんで現場を圧迫します。
建築の現場では「壊れてから直せばいい」という考えで維持管理を進めてしまうケースが少なくありません。これが事後保全の典型的なアプローチです。一方、予防保全は不具合が発生する前に定期的な点検・補修を行う考え方です。
ここで多くの建築業従事者が見落としがちなのが「どちらが得か」という問いの時間軸です。短期で見れば事後保全のほうが費用はかかりません。問題が起きていないのだから当然です。しかし時間軸を伸ばしたとたん、結論は逆転します。
国土交通省の試算では、事後保全を続けた場合、2018年度から30年後(2048年度)の維持管理・更新費は約2.4倍に増加するという結果が出ています。対して予防保全に転換した場合は約1.3倍の増加にとどまります。つまり、事後保全を選び続けることは、将来の現場に約2倍近い費用の塊を先送りしているのと同じです。
結論は長期視点にあります。
| 視点 | 事後保全 | 予防保全 |
|------|---------|---------|
| 短期コスト(5年以内) | ✅ 低い | ⚠️ やや高い |
| 長期コスト(30年後) | ❌ 約2.4倍増 | ✅ 約1.3倍増にとどまる |
| 突発的な出費リスク | ❌ 高い | ✅ 低い |
| 工期の計画性 | ❌ 不安定 | ✅ 計画しやすい |
建築費(イニシャルコスト)がライフサイクルコスト全体に占める割合はわずか2〜3割とされており、残り7〜8割がランニングコストです。建物の種類によってはこの差がさらに広がり、ランニングコストが初期コストの5倍になるケースも報告されています。保全方針の選択は、建物の「生涯費用」に直結するのです。
参考:建物のライフサイクルコストと予防保全の関係についての解説(松尾建設)
中長期修繕計画とライフサイクルコスト | 松尾建設
事後保全の一見シンプルな魅力は「問題が起きるまでコストがかからない」という点です。これは間違いではありません。ただし、この考え方には重大な落とし穴があります。
問題が表面化したときには、すでに損傷が深刻な段階まで進行していることが多いのです。
たとえば外壁の場合、ひび割れが目立ち始めた段階では、内部の鉄筋がすでに腐食を始めているケースがあります。この段階での補修は「表面に含浸材を塗るだけ」ではなく、「コンクリートを深くはつり取る大手術」になります。この処置の差はコストで数倍〜数十倍になるとも言われています。
これは使えそうな情報です。
事後保全の隠れたコストには以下の3つが代表的です。
- 🔴 緊急対応コスト:深夜・休日の突発故障対応や、専門業者の緊急手配費用は通常時の1.5〜2倍になることも珍しくない
- 🔴 二次被害コスト:設備の故障が別の部位・別の設備を巻き込む連鎖的ダメージ(例:水漏れによる床・壁の腐食)
- 🔴 機会損失コスト:修繕中の工事中断・操業停止、テナントの退去リスクなど、目に見えにくいが確実に発生するロス
また、事後保全では修繕業者の選定に十分な時間をかけられないという問題もあります。急いで探した業者が必ずしも最適とは限らず、費用が割高になるリスクがあります。予防保全では計画的に業者比較や入札ができるため、この点でも結果的に費用が下がります。
短期コストだけで判断するのは危険です。
参考:事後保全のメリット・デメリットと設備保全コストの考え方
設備の「事後保全」とは?予知・予防保全との費用差まで解説 | FAプロダクツ
「予防保全のほうが得だとは知っているけど、具体的にどれくらい違うの?」という疑問を持つ方は多いはずです。ここでは公的な数字を使って、その差を具体的に示します。
国土交通省が所管する道路・河川・建築物などのインフラ施設における試算は非常に参考になります。予防保全に転換した場合、1年あたりの維持管理費は2048年度時点で事後保全に比べて約5割減少するという結果が出ています。30年間の累計でも約3割減少します。
規模を個別建築物に引き寄せて考えてみましょう。
仮にある建物の年間維持管理・修繕費が現状200万円だとします。事後保全を続けた場合、30年後にはこれが2.4倍の約480万円になる計算です。予防保全に切り替えた場合は1.3倍の約260万円にとどまります。この差は30年間の累計でどのくらいになるか——単純計算でも数千万円の差が生まれ得ます。
| 試算条件 | 30年後の年間維持費(目安) |
|---------|-------------------|
| 現状維持費:年間200万円 × 事後保全継続 | 約480万円/年(2.4倍) |
| 現状維持費:年間200万円 × 予防保全転換 | 約260万円/年(1.3倍) |
| 削減可能額(年間差額・30年後) | 約220万円/年 |
つまり削減効果は大きいです。
また、建築補修市場全体で見ると、2024年度の規模は約15兆円(前年比+3.2%)にのぼり、建設投資全体の約2割を占めています(Daigasグループ資料より)。この市場が拡大しているということは、老朽化建物の補修需要が急増していることを意味します。事後保全型で対応し続けると、この波の影響をダイレクトに受けることになります。
参考:インフラ維持管理費の事後保全・予防保全の比較(国土交通省ベースの推計)
令和2年版 情報通信白書 インフラ・建設分野における予防保全効果 | 総務省
「では予防保全一択でいいのでは?」という結論を出すのは早計です。実は、事後保全が合理的な選択になる場面も確実に存在します。これを知っておくことが、現場での正確なコスト判断につながります。
事後保全が適しているのは次のようなケースです。
- ✅ 修繕が短時間・低コストで完了する部位(例:電球交換、蛇口パッキンの取り替えなど)
- ✅ 故障しても他の設備や作業に影響が及ばない独立した部位
- ✅ 耐用年数がすでに残り少なく、予防保全投資の回収が見込めない設備
- ✅ 代替手段がすぐに確保でき、ダウンタイムのリスクが低い設備
一方、予防保全を優先すべき部位はこちらです。
- 🔴 構造体(基礎・柱・梁)
- 🔴 防水層(屋上・外壁の防水処理)
- 🔴 給排水・電気設備など建物の基幹インフラ
- 🔴 複数の工程・機能に影響が及ぶ設備
この判断基準を持たずに「とりあえず事後保全でいい」または「すべて予防保全」という画一的な対応は、いずれも非効率です。重要度・影響度・コスト回収性の3軸で評価し、部位ごとに保全方針を決める「ハイブリッド保全」が、現場の現実的な最適解といえます。
ハイブリッド保全が基本です。
この判断に役立つツールとして、各部位の重要度・修繕コスト・劣化周期をまとめた「中長期修繕計画」の作成が推奨されます。国土交通省も公共建築物に対してこの計画策定を推進しており、民間建築物でも積極的に取り入れる建築会社が増えています。
ここからは検索上位ではあまり語られていない、建築業従事者にとって実践的な視点をお伝えします。それは、予防保全の実施記録が建物の資産価値・担保評価に直結するという点です。
金融機関が建物の担保価値を評価する際、維持管理の状態は重要な審査項目のひとつです。適切な保全記録が残されている建物は、そうでない建物に比べて評価が高くなるケースがあります。逆に、事後保全ばかりで記録が乏しい建物は「管理状態不明」と判断され、担保評価が下がる可能性があります。
つまり保全記録は資産そのものです。
また、近年のESG投資の拡大や建物の省エネ基準強化に伴い、適切なメンテナンス履歴を持つ建物は売却・賃貸市場でも優位性を持ちます。賃貸マンションやオフィスビルでは、入居率の安定にも予防保全の実施状況が影響します。外壁の剥落やエレベーターの突発停止は、入居者の満足度を大きく下げ退去率上昇につながります。
さらにこんな視点もあります。アパート経営で事後保全を選択した場合、修繕工事が突発的に発生するため資金計画が立てにくくなります。予防保全であれば中長期修繕計画に基づいて修繕積立資金を管理できるため、金融機関への借入相談においても説得力が高まります。
| 観点 | 事後保全の影響 | 予防保全の影響 |
|------|-------------|-------------|
| 担保評価 | ⚠️ 管理不明で評価低下リスク | ✅ 良好な管理記録で評価向上 |
| 入居率・賃料 | ❌ 突発トラブルで退去率上昇 | ✅ 安定した入居率・資産価値維持 |
| 資金計画 | ❌ 突発出費で計画が立てにくい | ✅ 計画的な積立・融資交渉が可能 |
| 売却価格 | ⚠️ 修繕履歴不足で値下がりリスク | ✅ 履歴が売却交渉で強みに |
予防保全を「コスト」ではなく「投資」として捉え直すことが、建築業のビジネスとしての正しい判断です。維持管理計画の作成には、建物管理のFM(ファシリティマネジメント)専門会社や建築士事務所へ相談することが、第一歩として有効です。
ここまで事後保全と予防保全のコスト比較を多角的に解説してきました。最後に、建築業従事者が現場で使える実践的なまとめを整理します。
まず、保全方針を決める前に「時間軸」を設定することが重要です。5年以内の短期で見れば事後保全は安く見えますが、30年スパンで見ると事後保全の維持管理費は2.4倍に膨らむという国土交通省の試算を忘れてはなりません。一方、予防保全への転換で30年後のコストを最大5割削減できる可能性があります。
次に、「全部を予防保全にすべき」という硬直した考えも捨てる必要があります。影響度が低くコストも小さい部位は事後保全で問題ありません。重要なのは、部位ごとに保全方針を判断する基準を社内で明確に持つことです。
🔽 実践チェックリスト
- ☑️ 建物の各部位ごとに「重要度」「修繕コスト」「劣化周期」が整理されているか
- ☑️ 中長期修繕計画(10年〜30年)が作成・更新されているか
- ☑️ 保全記録(点検履歴・修繕履歴)が紙またはデジタルで適切に管理されているか
- ☑️ 予防保全と事後保全の区分判断基準が社内で共有されているか
- ☑️ 修繕積立資金の計画が中長期修繕計画と連動しているか
- ☑️ 担当者が変わっても保全方針が引き継げる仕組みがあるか
保全方針の見直しが最初の一歩です。
建築業において、保全コストの最適化は利益率に直結するテーマです。現場の予算逼迫が続く今だからこそ、「どこに投資し、どこを抑えるか」という戦略的思考が求められます。中長期修繕計画の作成に不安がある場合は、建築士や設備管理の専門業者に相談することが、長期的なコスト削減の確実な出発点となります。
参考:建築物の予防保全と維持管理のコスト差についての国土交通省公式資料
国家機関の建築物等の保全の現況(令和4年3月)|国土交通省