

プールの水質管理において、最も厄介でありながら見落とされがちな現象が「塩素ロック(オーバー・スタビリゼーション)」です。これは、シアヌル酸の濃度が高くなりすぎた結果、塩素分子が過剰に安定化され、殺菌成分である次亜塩素酸(HOCl)が水中に放出されなくなる状態を指します。
通常、屋外プールでは紫外線による塩素の分解を防ぐために「塩素安定剤」としてシアヌル酸を使用します。あるいは、安定剤があらかじめ配合された「塩素化イソシアヌル酸(ジクロロ、トリクロロ)」系の塩素剤を使用することが一般的です。適度な濃度であれば、シアヌル酸は塩素を紫外線から守る「日傘」のような役割を果たし、薬剤コストの削減に寄与します。
しかし、シアヌル酸は「分解されない」という化学的特性を持っています。水中の塩素は殺菌に使われたり紫外線で分解されたりして消失しますが、シアヌル酸は水中に残留し、蓄積され続けます。濃度が一定レベル(一般的に50ppm〜100ppm以上)を超えると、塩素とシアヌル酸の結合が強固になりすぎ、必要な時に塩素が働かない状態に陥ります。
このメカニズムを理解していないと、「塩素が効かないからもっと塩素を入れる」という悪循環に陥ります。さらに投入される塩素剤(安定剤入り)によってシアヌル酸濃度がさらに上昇し、事態は悪化の一途をたどります。建築設備の維持管理において、循環ろ過装置の性能不足を疑う前に、まずこの化学的な「ロック」を疑う必要があります。
参考:公益社団法人 日本プールアメニティ協会|プールFAQ(塩素管理の基礎知識)
日本国内におけるシアヌル酸の濃度管理は、法的拘束力のある明確な「上限数値」として厚生労働省の衛生基準に記載されているわけではありません。しかし、水質管理の実務上、および薬剤メーカーの推奨値として、一定のガイドラインが存在します。
厚生労働省の「遊泳用プールの衛生基準」では、遊離残留塩素濃度を0.4mg/L以上、1.0mg/L以下(望ましい範囲)と定めています。シアヌル酸を使用する場合(塩素化イソシアヌル酸を使用する場合を含む)でも、この遊離残留塩素濃度を維持することが最優先されます。しかし、前述の塩素ロックが発生すると、DPD法などの試薬検査では「残留塩素あり」と判定されても、実際の殺菌力(酸化還元電位)は著しく低下しているケースがあります。
実務的な管理基準としては、以下の数値を指標とすることが推奨されています。
| 項目 | 基準値・目安 | 備考 |
|---|---|---|
| 遊離残留塩素 | 0.4mg/L ~ 1.0mg/L | 法的基準(厚労省) |
| シアヌル酸 | 30mg/L ~ 50mg/L | 最適範囲(塩素の効果と安定のバランス) |
| 要警戒ライン | 60mg/L ~ 80mg/L | 塩素効果の低下が始まり、藻が発生しやすくなる |
| 危険ライン | 100mg/L 以上 | 塩素ロック発生リスク大。早急な対応が必要 |
米国のCDC(疾病予防管理センター)などのガイドラインでは、シアヌル酸濃度の上限についてより具体的な言及がある場合がありますが、日本の現場では「透明度」や「過マンガン酸カリウム消費量」などの指標と合わせて総合的に判断されます。特に学校プールや市民プールなど、夏期のみ短期間稼働する施設では、シーズン後半に蓄積がピークに達するため注意が必要です。
参考:厚生労働省|公衆浴場における衛生等管理要領等について(水質基準の詳細)
現場で「塩素が効かない」と感じた場合、即座にシアヌル酸濃度を測定する必要があります。通常の残留塩素測定器(DPD試薬など)ではシアヌル酸の濃度は測れません。専用の測定キット、または多項目測定可能なデジタル水質計(フォトメーター)が必要です。
主な測定方法:
濃度を下げる方法:
結論から言うと、「換水(水を入れ替えること)」が唯一の実用的な除去方法です。
市場には「シアヌル酸低減剤(Reducer)」と称するバイオ製品などが海外で存在しますが、高価である上に即効性がなく、反応によってアンモニア等の副生成物を生じるリスクがあるため、日本の業務用プール管理では一般的ではありません。
濃度を下げるための換水計算は以下の通りです。
単純な希釈計算で濃度は下がります。全換水が難しい大規模施設や、水道代の予算が限られている施設では、毎日の逆洗(逆洗浄)排水を多めに行うことで、少しずつ濃度を希釈していく「希釈管理」が重要になります。シーズン途中での全換水は運営停止を伴うため、濃度が危険域に達する前に、日々の補給水量でコントロールする計画性が求められます。
参考:カシヤマ株式会社|プールテスター Scuba3s(多項目水質計の仕様)
ここからは、建築・設備業者が特に留意すべき「構造体への影響」について解説します。水質管理の話だと思われがちですが、実はシアヌル酸、特に「トリクロロイソシアヌル酸」の使用法を誤ると、プールの躯体そのものを物理的に破壊する原因となります。
1. 酸性化によるコンクリートの侵食(エッチング)
トリクロロイソシアヌル酸は、pHが2.8〜3.0程度の強酸性を示します。これを中和剤(炭酸ナトリウム等)なしで使用し続けたり、調整が不十分でプールの水が酸性(pH7未満)に傾いた状態が続くと、コンクリートやモルタル目地に含まれるカルシウム成分が溶け出します。
この現象は「エッチング」と呼ばれ、プール内壁や底面の表面がザラザラになり、砂利や骨材が露出する原因となります。ザラついた表面は藻の胞子にとって絶好の隠れ家となり、ブラシ掃除でも藻が落ちにくくなります。その結果、さらに強力な塩素剤を投入せざるを得なくなり、躯体劣化が加速するという悪循環を生みます。
2. 錠剤の直接散布による極所的破壊
絶対にやってはいけないのが、塩素化イソシアヌル酸の錠剤をプール底に直接投げ込む行為です。溶解速度が遅い錠剤が底に沈んでいる間、その周辺の数センチ範囲は極めて高濃度の酸・高濃度塩素状態になります。
これにより、以下のトラブルが発生します。
3. ステンレス配管・設備の腐食
シアヌル酸濃度の管理不全によりpHバランス(特に総アルカリ度)が崩れると、水は腐食性(Corrosive)を持ちます。これは熱交換器(ボイラー)、はしご、手すり、ヘアキャッチャーなどのステンレス部材(SUS304/SUS316)に錆を発生させる原因となります。
建築従事者としては、プール改修工事の際に「なぜ劣化が早いのか」を診断する視点として、この化学的侵食の可能性を考慮に入れるべきです。表面保護工法(エポキシ樹脂ライニングなど)を提案する際も、クライアントの薬剤運用方法をヒアリングし、適切な耐薬品性を持つ材料を選定する必要があります。
参考:日本建設業連合会|トラブル回避のための共通認識(コンクリートの化学的劣化事例)
ここまでリスクを中心に解説しましたが、シアヌル酸は適切に管理されれば非常に有用な物質です。特に直射日光が強い屋外プールにおいては、シアヌル酸なしでは塩素があっという間に(数十分〜数時間で)消失してしまいます。
適正な利用のメリット:
適正な水質維持(LSI:ランゲリア飽和指数の活用)
プロの管理においては、単に塩素濃度を測るだけでなく、「水がバランスしているか」を見る指標として**LSI(Langelier Saturation Index)**の概念を取り入れることが推奨されます。
LSIは、pH、水温、カルシウム硬度、総アルカリ度、そしてシアヌル酸濃度から算出され、水が「腐食性(サビ・侵食)」か「スケール生成性(沈殿・配管詰まり)」かを判断します。
シアヌル酸は「総アルカリ度」の測定値に干渉します(測定値の約1/3がシアヌル酸由来のアルカリ度としてカウントされてしまう)。そのため、正確なLSI計算にはシアヌル酸濃度の補正が不可欠です。
「塩素を入れているのに水が濁る」「目地が痩せる」といったトラブルは、このLSIバランスが崩れていることが大半です。
結論として、シアヌル酸は「毒」にも「薬」にもなります。
建築・設備担当者としては、新設や改修の段階で、使用する薬剤の種類(液体か固形か)に応じた薬注システムの選定や、スムーズな換水(オーバーフロー)が可能な配管設計を行うことが、長期的な施設保全につながります。
参考:日本学校保健会|学校における水泳プールの保健衛生管理(適切な薬剤使用について)

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