

現場で採取した塗膜片を分析に出したら、見た目では判別できなかった劣化が数十μmの薄さで特定され、補修費用が約30万円削減できた事例があります。
フーリエ変換赤外分光法(FT-IR)は、物質に赤外線を照射し、分子が吸収した波長のパターンを解析することで「その物質が何か」を特定する分析技術です。英語では Fourier Transform Infrared Spectroscopy と表記し、略して「FTIR」や「FT-IR」と呼ばれます。
つまり、物質固有の吸収パターンを読み取る技術です。
人間の指紋が一人ひとり異なるように、分子には固有の赤外線吸収パターン(IRスペクトル)があります。FT-IRはこの「分子の指紋」を記録し、データベースと照合することで未知の物質を短時間で同定できます。建築業で例えるなら、図面なしで建てられた既存建築物の壁材がどんな素材でできているかを、わずか数分で割り出すようなイメージです。
分析の対象は有機物が中心です。塗料・シーリング材・防水材・断熱材・樹脂・ゴム、そして最近注目されているマイクロプラスチックの同定まで、幅広い用途で活躍しています。無機物の一部も測定可能ですが、金属や単原子分子(鉄、金など)は赤外線を吸収しないため原則測定できません。これが基本です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 波長域 | 中赤外:2.5〜25 μm(波数4000〜400 cm⁻¹)が主流 |
| 主な測定対象 | 有機物・一部の無機物(樹脂、塗料、ゴム、繊維 など) |
| 測定で得られるもの | IRスペクトル(官能基・化学結合の情報) |
| 測定形態 | 固体・液体・気体すべて対応可能 |
赤外線は紫外・可視光よりもエネルギーが小さく、物質の電子を動かすほどではありません。しかし分子内の原子が伸縮・変角などの「振動」をするエネルギーにはちょうど対応しています。そのため、赤外光が特定波長で分子振動を励起した際に吸収が起き、そのパターンが物質固有の「指紋」になるのです。
📎 日本分析機器工業会|フーリエ変換赤外分光光度計の原理と応用(公式解説ページ)
FT-IRが従来の「分散型」赤外分光計と大きく異なるのは、「干渉計(マイケルソン干渉計)」を使う点です。干渉計の動作を知ることが、FT-IRの原理を理解する核心といえます。
従来の分散型は、光を波長ごとに分けてひとつひとつ順番に測定していました。これはピアノを1鍵ずつ順番に弾いて録音するようなイメージです。それに対しFT-IRは、全鍵盤を同時に弾いた音を録音し、後から数学で各音を分解する方式です。この「全波長同時測定」が、FT-IRの高速・高感度の理由です。
装置の構成は主に4つです。
- 🔦 赤外光源:全波長を含む赤外線を連続照射
- 🔁 干渉計(マイケルソン干渉計):固定鏡と移動鏡でビームを干渉させる
- 🧪 試料室:干渉光を試料に当てる
- 📡 検出器:透過または反射した干渉光を検出
干渉計の中ではビームスプリッターで光を2方向に分割し、一方は固定鏡へ、もう一方は移動鏡へ向かいます。移動鏡が動くことで2つの光路の長さに差(光路差)が生まれ、光が「干渉」します。この干渉した光の強度を時間軸で記録したものが「インターフェログラム(干渉波形)」です。
インターフェログラムが重要です。
インターフェログラムは、あらゆる波長の情報が複雑に重なり合った波形で、人間の目には意味のある情報には見えません。これをコンピュータで「フーリエ変換」という数学的処理にかけることで、波長ごとの吸収強度に分解されたIRスペクトルが得られます。この「数学的変換」がFT-IRの名前の由来です。
移動鏡を1回走査(スキャン)するだけで1スペクトル分のデータが得られるため、測定時間は1回わずか数秒〜数十秒で完了します。複数回スキャンして積算平均することで、SN比(シグナル対ノイズ比)を高めた精度の高いスペクトルが得られます。これは時間対効果の面で非常に優れた特長です。
📎 日本分光株式会社|FTIRの基礎(1)赤外分光法の原理(分子振動・双極子モーメントの詳細解説)
FT-IRの測定結果として出てくる「IRスペクトル」は、横軸が波数(単位:cm⁻¹)、縦軸が透過率(%T)または吸光度(Abs)のグラフです。この読み方を知っておくだけで、外部分析機関のレポートを受け取った際に内容をぐっと理解しやすくなります。
波数は波長の逆数です。数値が大きいほど短波長(高エネルギー)の赤外線に相当します。通常の分析で使われる中赤外領域は4000〜400 cm⁻¹の範囲で、はがき1枚(148mm)の横幅をこの範囲に見立てるとイメージしやすいでしょう。
グラフ上に現れる「吸収ピーク(へこみ)」がそれぞれ特定の官能基(化学結合)の情報を表しています。代表的な対応を以下に示します。
| 波数(cm⁻¹)の目安 | 対応する官能基・構造 |
|---|---|
| 3200〜3600 | O-H伸縮(水酸基、水分) |
| 2800〜3000 | C-H伸縮(炭化水素) |
| 1700〜1750 | C=O伸縮(カルボニル基、エステル) |
| 1500〜1600 | N-H変角(アミン)、芳香環 |
| 1000〜1300 | C-O伸縮(エーテル、ポリウレタン等) |
スペクトルは物質固有のパターンを示します。これを「指紋領域(フィンガープリント領域)」と呼び、1500〜400 cm⁻¹の範囲は物質ごとの細かな違いが最も出やすい部分です。未知試料のスペクトルをデータベース(ライブラリ)と自動照合することで、数十万件以上の既知物質の中から最も一致率の高い候補を提示してくれます。意外ですね。
縦軸の吸光度(Abs)は物質の濃度・厚みに比例します。そのため、ピークの高さや面積を使って特定成分の定量分析もできます。たとえばコーティング膜の厚みを推定したり、塗膜中の特定成分の含有比率を算出したりする用途に応用されます。これが条件です。
📎 MST(マテリアルサイエンス テクノロジー)|FT-IR フーリエ変換赤外分光法の特徴・原理・スペクトル例
FT-IRには複数の測定方式があり、試料の形状・厚み・状態によって最適な方法が異なります。建築業に関わる人が分析を依頼する場面を想定すると、測定方法の違いを知っておくことは試料の準備や依頼時のやり取りをスムーズにします。
方法は大きく3種類です。
① 透過法(KBr錠剤法・薄膜法など)
試料に赤外線を直接通過させ、透過量を測定します。最も感度が高い方法で、粉末状の試料や薄いフィルムに適しています。建材の分析では、塗膜をはがして粉砕し、臭化カリウム(KBr)と混合してプレスした錠剤状にして測定するKBr錠剤法がよく使われます。ただし厚みのある試料は光が透過しにくいため向いていません。
② ATR法(全反射法)
試料を高屈折率のプリズムに密着させ、試料表面から約1 μm(1マイクロメートル、髪の毛の100分の1以下)の深さだけを測定します。試料をほぼ前処理なしで測定できるため、現在は最もよく使われる方法です。フィルム、塗料硬化膜、シーリング材のカット断片、ゴム片など、建築現場で採取した試料に向いています。非破壊で測定できるのも大きなメリットです。
③ 反射法・拡散反射法(DR法)
粉末状の試料や金属上の薄膜、塗膜表面を非破壊のまま測定するのに使います。金属構造物の表面コーティングやさび止め塗料の確認など、試料を削り取れない場合に有効です。
| 測定方法 | 適した試料 | 特記事項 |
|---|---|---|
| 透過法(KBr錠剤法) | 粉末・薄膜・液体 | 最高感度、前処理が必要 |
| ATR法 | 塗膜片・ゴム・フィルム・固体 | 前処理ほぼ不要、表面分析に最適 |
| 反射法(DR法) | 粉末・金属表面コーティング | 非破壊、表面のみの情報 |
| 顕微赤外分光法 | 数十μm以下の微小試料・異物 | 高解像度マッピング可能 |
ATR法が現在の主流です。分析機関に依頼する際は、試料の形状(粉末か板状かフィルムか)と評価したい内容(成分同定か劣化評価か定量分析か)を伝えると、適切な測定方法を提案してもらえます。1試料あたりの分析費用は機関によって差がありますが、公設試験研究機関(各都道府県の産業技術センターなど)では7,600円〜17,800円程度が相場の目安です。
📎 アズサイエンス|フーリエ変換赤外分光光度計(FT-IR)とは?測定方法や原理も解説(各測定方法の詳細比較)
FT-IRは化学や製薬の専門分野だけの技術ではありません。建築・建設の現場でも、材料トラブルの原因特定や品質管理において、すでに実際に活用されています。
代表的な活用場面は以下の通りです。
- 🔍 塗膜の成分同定:補修時に既存塗膜の材質(アクリル系か、ウレタン系か、エポキシ系かなど)を特定し、上塗り塗料との相性を判断する
- 🧱 シーリング材の劣化評価:現場から採取したシーリング材をATR法で分析し、経年によるポリマー鎖の酸化・分解状態を確認する
- 🏠 防水材の表面分析:北海道立総合研究機構の研究事例では、FT-IRを使って高強度形ウレタン防水材の表面状態を分析し、劣化メカニズムの解明に活用されています
- 🏭 建材中の異物特定:コンクリート打設後や塗装後に発見された異物の素材を特定し、混入工程の特定と責任の所在確認に使われる
- ⚠️ アスベスト分析の補助手段:厚生労働省のアスベスト分析マニュアルでもFTIRは参考手法として位置づけられており、結晶構造解析と組み合わせることで分析精度が高まる
建設工事中に建材から発生する燃焼ガスの多成分リアルタイム分析にも活用されています。国立研究開発法人建築研究所の業務報告書(令和4年度)では、FTIR(フーリエ変換赤外分光光度計)を各種建材の燃焼ガス計測装置に実装し、有害ガスの同時多成分測定を実現したことが記されています。
これは使えそうです。
建築業で特に注目したいのが「塗膜の材料確認」の用途です。古い建物のリフォームや改修工事では、設計図書に材料記録がなく「どんな塗料が塗られているか不明」という場面が多々あります。そのまま上塗りすると密着不良や剥離が起き、やり直しコストが発生します。FT-IR分析で事前に塗膜成分を確認しておけば、適切な下地処理方法と上塗り材料の選択ができ、トラブルを未然に防げます。
分析を依頼する際は、日本塗料検査協会や各都道府県の産業技術センター、民間の受託分析機関(JTL、東芝ナノアナリシス、クオルテックなど)が窓口となります。試料は切り取った塗膜片や採取したシーリング材の断片数グラム程度で足ります。塗膜片の大きさは「1cm×1cm程度」あれば多くの場合分析可能です。
📎 国立研究開発法人建築研究所|アスベスト含有建材の劣化診断手法に関する共同研究報告(建築分野でのFT-IR活用の公的研究事例)