

建築業界で長年使用されてきたポリ塩化ビニル(PVC)製品などの軟質プラスチックには、可塑剤としてフタル酸ビス(2-エチルヘキシル)(別名:DEHP、DOP)が広く添加されています。この物質は、材料に柔軟性を持たせるために不可欠な役割を果たしてきましたが、近年の研究によりその毒性、特に「生殖毒性」に関する懸念が世界的に高まっています。建設現場で働く作業員の方々にとって、この物質がどのような健康リスクを持ちうるのかを正しく理解することは、自身の身を守るための第一歩となります。
フタル酸ビスの毒性として最も懸念されているのが、内分泌かく乱作用(環境ホルモン作用)および生殖機能への悪影響です。動物実験においては、特に雄のラットに対して精巣の萎縮や精子数の減少といった症状が確認されています。また、妊娠中の母体が多量に摂取・吸入した場合、胎児の発達に影響を及ぼす可能性も指摘されています。
人間に対する発がん性については、国際がん研究機関(IARC)の分類で「グループ2B(ヒトに対して発がん性がある可能性がある)」に指定されており、絶対に安全とは言い切れないのが現状です。
建築現場において、このリスクが現実的になるのは、主に建材の加工や撤去作業時です。
これらの経路を通じて体内に取り込まれたフタル酸ビスは、直ちに急性中毒を起こすことは稀ですが、長期間にわたって低濃度でばく露し続けることによる慢性的な健康被害が懸念されます。特に、これから子供を望む世代の作業員にとっては、目に見えないリスクとして認識しておく必要があります。
参考リンク:厚生労働省 [PDF] 37.フタル酸ビス(2-エチルヘキシル)の有害性評価書
厚生労働省による詳細なリスク評価書です。動物実験の結果や人への推定摂取量、規制値の根拠となったデータが詳細に記載されており、科学的根拠を確認するのに最適です。
フタル酸ビス(DEHP)に対する規制は、世界中で年々厳格化しています。特に欧州連合(EU)では、RoHS指令(電気・電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限指令)において、2019年以降、フタル酸エステル類4物質(DEHP、BBP、DBP、DIBP)の使用が原則禁止されました。これにより、日本国内のメーカーも欧州向け製品やグローバル基準に合わせた製品開発を余儀なくされ、脱フタル酸の流れが加速しています。
日本国内においても、厚生労働省や環境省が中心となり、様々な法規制やガイドラインが設けられています。
しかし、ここで建築従事者が注意しなければならない「意外な盲点」があります。それは、**「建築材料そのものに対する使用禁止規制は、おもちゃや食品容器ほど厳しくない」**という点です。
住宅の壁紙や床材に関しては、直接口に入れるものではないため、現在でも塩化ビニル樹脂の可塑剤としてフタル酸ビスが使用されているケースがあります。あるいは、過去に施工された建物には高確率で含まれています。
建築基準法では、シックハウス対策としてホルムアルデヒドやクロルピリホスの使用制限が有名ですが、フタル酸エステル類については「表示義務」や「換気励行」といったレベルの管理にとどまっていることが多いのが実情です。
つまり、建築現場は「規制の網がかかりにくい場所」であり、作業員自らが知識を持って対策を講じなければ、知らず知らずのうちに高濃度の物質にさらされる可能性があるのです。
特にリフォームや解体工事の現場では、数十面前に製造された建材を扱います。当時の建材には現在の基準よりもはるかに多くのDEHPが含まれている可能性があります。規制はあくまで「これから作る製品」や「完成後の室内環境」を守るためのものであり、「工事中の作業員」を守るためのルールは自主管理に委ねられている部分が大きいことを理解しておく必要があります。
参考リンク:JEITA [PDF] EU RoHS指令制限対象フタル酸エステルに関する注意点
電機・電子業界向けの資料ですが、ケーブルや配線部材など建築設備に関わる部材の規制状況や、含有リスクのある材料について詳しく解説されており、建材選定の参考になります。
建築現場、特に密閉された空間での作業において、フタル酸ビスによる室内空気汚染は深刻な問題となり得ます。フタル酸ビスは揮発性が低い(蒸発しにくい)物質とされていますが、常温でもわずかに放散され、気温が上昇する夏場の現場や、投光器などの熱源近く、あるいはサンダー掛けや溶断などの熱を伴う作業時には、空気中の濃度が急激に上昇します。
空気中に放出されたフタル酸ビスは、ガス状(蒸気)として存在することもあれば、微細な粒子(粉じん)に付着して浮遊することもあります。これらは呼吸とともに肺の奥深くまで到達し、血液中に取り込まれます。
現場で実践すべき具体的なばく露対策は以下の通りです。
これらの対策は、フタル酸ビスだけでなく、アスベストやシリカ粉じんなど、他の有害物質対策とも共通する部分が多く、現場全体の安全衛生レベルを向上させることにつながります。
参考リンク:NITE [PDF] フタル酸ビス(2-エチルヘキシル)のリスク管理の現状と今後のあり方
製品評価技術基盤機構(NITE)によるレポートで、化学物質管理の観点から、どのようにリスクを評価し管理すべきかが体系的にまとめられています。
ここでは、一般的にはあまり語られない「建材の経年劣化と毒性の可視化」という独自の視点から解説します。建築リフォームの現場で、古いビニールクロスやクッションフロアの表面がベタベタしていたり、黒ずんで汚れていたりするのを見たことはありませんか?
これは専門用語で**「ブリード現象(ブリードアウト)」**と呼ばれています。
塩化ビニル樹脂の中に含まれている可塑剤(フタル酸ビスなど)は、樹脂と化学的に結合しているわけではなく、分子の間に混ざり合っているだけです。そのため、経年劣化や温度変化によって、可塑剤が材料の表面に徐々に染み出してきます。
この染み出した油状の成分が「ベタつき」の正体であり、そこに空気中の埃や汚れが付着して黒ずみとなります。
現場作業員にとってのブリード現象の意味:
代替可塑剤へのシフトと未来の建材:
このような問題や世界的な規制強化を受けて、現在の建材メーカーは「ノンフタル酸」への切り替えを急速に進めています。
代替材料として主流になりつつあるのが、**DOTP(テレフタル酸ジオクチル)やDINCH(シクロヘキサンジカルボン酸ジイソノニル)**などの非フタル酸系可塑剤です。これらは生殖毒性が極めて低い、または認められないとされており、より安全な選択肢として普及しています。
建築図面や仕様書において、「非フタル酸」「ノンフタル」「フタル酸フリー」といった記載を目にする機会が増えているはずです。公共工事や学校、病院などの案件では、すでにグリーン購入法などの基準により、特定フタル酸エステルを含まない建材の使用が必須条件となっている場合もあります。
しかし、技術的な課題もあります。代替可塑剤は従来のDEHPに比べて価格が高かったり、加工のしやすさ(柔軟性や耐久性)が異なったりすることがあります。現場では「最近の材料は硬くて施工しにくい」「冬場の伸びが悪い」と感じることがあるかもしれませんが、それは作業員の健康と環境を守るための「安全な材料」への進化の過程であると言えます。
将来的には、フタル酸ビスを使用した建材は市場から完全に姿を消すと予想されます。建築従事者としては、古い建材を扱う際の「ブリード現象=危険信号」という認識を持ちつつ、新しい「ノンフタル酸建材」の特性(接着剤の選定や施工時の温度管理など)を理解し、適切に施工する技術が求められていくでしょう。
安全な建築環境を作るのは、設計者だけでなく、現場で素材と向き合う職人の知識と意識にかかっています。
参考リンク:柔軟な未来:非フタル酸エステル系可塑剤市場の成長予測
可塑剤市場の将来予測に関する記事です。なぜ世界的にノンフタル酸への移行が進んでいるのか、経済的な成長率や代替物質(DOTPなど)の具体的な名称とともに解説されており、業界のトレンドを把握できます。