

溶媒ゼロでも室内のトルエンが指針値超えを見逃す可能性があります。
固相マイクロ抽出法(英語名:Solid Phase Micro Extraction、略称:SPME)は、揮発性・半揮発性物質を試料から抽出・濃縮するためのサンプル前処理技術です。1990年代初頭、カナダのウォータールー大学のJanusz Pawliszyn教授のグループによって開発され、その後急速に世界中の分析現場に普及しました。
従来の揮発性物質の濃縮には、大量の有機溶媒や複雑な装置が必要でした。それが問題でした。SPMEはその課題を根本から覆し、溶媒をまったく使わずに試料中の成分を吸脱着するという革新的なアプローチで注目を集めました。
開発から30年以上が経過した現在も、環境分析・食品・医薬品・法医学・建築衛生など幅広い分野でスタンダードな手法として採用されています。日本でも室内空気質の測定分野を中心に、シックハウス対策への応用が研究・実用化されています。
固相マイクロ抽出 - Wikipedia(開発の歴史・基本原理の概説)
SPMEの核心は、細いニードル(針)の中に格納された「ファイバー」と呼ばれる抽出媒体です。このファイバーの表面には、ポリジメチルシロキサン(PDMS)などのポリマーが薄膜コーティングされており、試料中の揮発性成分をそこに吸着・吸収させます。
操作の流れはシンプルです。まずニードルをバイアル(試料容器)のセプタムに貫通させ、プランジャーを押し下げてファイバーを試料または試料上部のヘッドスペースに露出させます。一定時間(通常10〜30分)後、ファイバーを再びニードル内に格納し、今度はガスクロマトグラフ(GC)の注入ポートに挿入します。ファイバーが高温にさらされることで吸着成分が一気に「熱脱離」し、GCカラムへ送られ分析が始まります。
抽出されるまでの流れをまとめると、「吸着(試料へのさらし)→ 収納→ GC注入ポートへ導入→ 熱脱離→ 分析開始」という5ステップです。これが基本です。
注目すべきは、検出感度の高さです。条件が整えばppt(1兆分の1)レベルの超微量な化合物でも検出できるとされており、これは従来の分析手法では困難だった領域です。例えば、プールの水1滴をバスタブ約40杯分の水に溶かした濃度に相当し、その微量さをイメージしてもらえれば検出能力の凄さがわかります。
ファイバーには複数の種類があり、目的に応じて使い分けます。代表的なものを以下に挙げます。
| ファイバー種類 | 主な対象化合物 | 特徴 |
|---|---|---|
| PDMS(100μm) | 非極性揮発性化合物 | 汎用性が高い。非極性の揮発物に最適 |
| PDMS/DVB(65μm) | アルコール、アミン類 | 極性の揮発性化合物の抽出に有効 |
| CAR/PDMS(75μm) | 超微量揮発性化合物 | VOCの痕跡量分析に強い |
| CW/DVB(65μm) | 極性化合物全般 | アルコールや芳香族に広く対応 |
ファイバーは適切に保管すれば数百回繰り返し使用でき、コスト面でも優れています。これは使えそうです。
固相マイクロ抽出(SPME)法の理論と条件の最適化 - M-hub(SPMEの動作原理・最適化条件の詳細解説)
SPMEには大きく分けて2つのサンプリング方式があります。「ヘッドスペース法(HS-SPME)」と「直接浸漬法(DI-SPME)」です。それぞれ適した試料の種類や目的が異なるため、状況に応じた選択が重要です。
ヘッドスペース法は、密封バイアル内で試料の上部空間(ヘッドスペース)にファイバーをさらし、揮発してきた成分を吸着する方法です。液体試料や固体試料の上部気相から揮発成分のみを選択的に捕集できるため、不揮発性の夾雑成分がGCカラムに入り込む心配がありません。これが条件です。室内空気や建材の放散ガスを対象とする場合は、この方式が広く用いられています。
一方、直接浸漬法は液体試料にファイバーを直接つけ込む方法です。揮発性が低く、ヘッドスペースへの移行量が少ない成分の分析に向いています。水中に溶存した有機化合物や、農薬残留物の分析などで活用されます。ただし試料中の夾雑物がファイバーに付着するリスクがあるため、クリーンな試料に限定して使うのが原則です。
建築現場や新築住宅の室内環境分析では主にヘッドスペース法が活用されます。壁紙・カーペット・合板・接着剤などの建材をバイアルに封入し、一定温度に加熱することで揮発するVOCをファイバーに吸着させ、そのままGC-MSで分析する手順が一般的です。
兵庫県立健康生活科学研究所の研究によれば、SPME系の吸着抽出デバイスをパッシブサンプリングに応用した場合、小形チャンバー法(JIS A1901)に近いTICパターン(揮発成分のプロファイル)が得られることが確認されています。つまり、従来の大型装置を使わなくても、より簡便に建材の揮発性化学物質を評価できる可能性があるということです。
固相マイクロ抽出(SPME)法による異臭分析 - 食品分析開発センターSUNATEC(SPME法の抽出フロー・2つのサンプリング方式の実務的解説)
建築業に携わる方であれば、「シックハウス症候群」という言葉は必ずといっていいほど耳にしているはずです。その原因物質の多くは揮発性有機化合物(VOC)であり、代表的なものにホルムアルデヒド、トルエン、キシレン、スチレンなどが挙げられます。これらは接着剤・塗料・壁紙・合板・カーペットなど建築材料に由来することが少なくありません。
厚生労働省が定めるホルムアルデヒドの室内濃度指針値は100μg/m³(0.08ppm)です。指針値超えが健康被害につながるリスクがあります。室内VOCの問題は「完成後の建物」だけでなく、「施工中の建材管理」という段階でも重要であり、建築従事者として無関係とは言えません。
SPMEがこの分野で活用される理由は明確です。
- 📌 装置が軽量でコンパクト:大型の抽出装置が不要なため、現場への持ち込みが容易
- 📌 溶媒ゼロで環境負荷が低い:有害な有機溶媒を使わず、施工現場での安全性が高い
- 📌 10分前後の短時間で抽出完了:急ぎのスクリーニングにも対応できる
- 📌 pptレベルの高感度検出が可能:微量でも健康影響がある成分を見落としにくい
- 📌 気体・液体・固体すべてに対応:建材の表面からの放散ガス、室内空気、溶出水など多様な試料形態に適用できる
室内建材の放散VOC評価には、JIS A1901(小形チャンバー法)という公定法が存在します。しかしこの方法は大型装置と2週間〜1か月程度の測定時間を要します。痛いですね。SPMEベースの吸着抽出デバイスを用いたパッシブ法は、これよりも安価かつ迅速に現場スクリーニングが行えると期待されており、住宅完成後の引渡し前確認や、クレーム対応時の原因特定場面などで活用が広がっています。
建材からのVOC放散速度基準では、トルエンの基準値が38μg/m²hとされています。SPMEを用いた吸着デバイスでの定量下限値(0.58ng、測定時間0.5h相当)はフラックス発生量で0.24μg/m²hに相当し、十分な検出感度を持つことが確認されています。つまり基準値の約1/100まで感知できるということです。
室内空気中化学物質の測定マニュアル - 厚生労働省(室内空気質の測定法の国内公定法・指針値の根拠)
SPMEは操作自体はシンプルですが、正確な結果を得るためには複数の条件を一定に保つことが必要です。条件がバラつくと再現性が下がります。分析を依頼する側の建築従事者にとっても、「どういう条件で測ったのか」を確認する視点が重要です。
まず押さえておきたいのが「抽出時間と抽出温度の統一」です。揮発性物質の場合、抽出時間は10分が一般的で、半揮発性物質では20〜30分が目安です。温度が高いほど揮発性が増し、ヘッドスペースへの移行量が多くなるため、分析ごとに温度設定を揃えることが基本中の基本です。
次に重要なのが「ファイバーの選択」です。ファイバーのコーティング素材や膜厚によって抽出できる化合物の種類が大きく変わります。例えばCAR/PDMSファイバーは超微量の揮発性化合物に強く、PDMS/DVBファイバーはアルコール類やアミン類に対して選択性が高くなっています。目的のVOCに合わないファイバーを使うと、同じ試料でも全く異なる結果が出てしまいます。
試料の「pHと塩分」も見落としがちなポイントです。酸性化合物は酸性条件下、アルカリ性化合物はアルカリ性条件下でより効率よく抽出されます。また試料に塩(NaCl等)を加えることで、多くの極性化合物の抽出効率が大幅に向上します。これは「塩析効果」と呼ばれており、水中VOCの分析では特に有効です。
さらに「バイアルのサイズと試料体積」も管理対象です。試料体積を1mL〜5mLに保ち、校正標準と同じ体積で揃えることが推奨されています。直接浸漬法を使う場合は特に、バイアル内のヘッドスペースを最小化する必要があります。
こうした条件が整ったうえで実施されたSPME分析でなければ、数値を鵜呑みにするのは危険です。測定報告書を受け取る際には、抽出方式(ヘッドスペースか直接浸漬か)・ファイバーの種類・抽出時間・温度の記載があるかを確認することを覚えておくだけで、分析結果の信頼性を大きく向上させられます。
ここまで技術的な概要を説明してきましたが、建築従事者が実際に固相マイクロ抽出法(SPME)と関わる場面はどこでしょうか?
多くの建築関係者は「分析は専門機関に任せれば終わり」と考えがちです。しかし実際には、分析を依頼する際の「試料の採取方法」が結果を大きく左右します。試料採取のミスは分析機関側では補えません。
たとえば建材からのVOCを測定したい場合、建材の切り出し方・保管容器の種類・保管温度・測定までのタイムラグなどが結果に直接影響します。アルミホイルで包む、臭気が移らない密封容器を使う、採取後は速やかに冷暗所保管するといった基本的な対応が、分析精度を守るうえで欠かせません。
また「竣工前のスクリーニング」という視点も重要です。建築基準法やガイドラインに基づくホルムアルデヒドなどのVOC測定は義務化されていますが、そのタイミングと方法によっては過小評価につながることもあります。例えば夏場・高温・締め切り状態での測定と、換気直後の冬場では数値が大きく変わります。竣工前に一度スクリーニングを行い、基準値をオーバーしていないかを確認しておくことが、引渡し後のクレームリスクを下げる最善策になります。
SPME法を使った分析を外部機関に依頼する際には、次の3点をセットで確認するのが実務的に有効です:①ファイバーの種類と適用対象(ターゲットVOCに合致しているか)、②抽出方式(ヘッドスペース・直接浸漬のどちらか)、③測定結果の検出下限値(指針値の1/10程度まで検出できるか)。
室内空気質の問題は完成後に発覚すると、建材の交換・換気設備の追加工事・居住者への補償など、数十万円以上の損害につながることもあります。事前の分析コストは数千円〜数万円程度が多く、リスク回避コストとして考えれば十分元が取れます。予防的な対応が条件です。
こうした観点から、建築従事者がSPMEという分析手法の名前だけでなく、「何を測れるか」「どんな条件で依頼すべきか」を知っておくことは、クレームリスクの低減・品質管理の向上・顧客信頼の確保に直結します。分析の知識は施工の質を守る武器になります。
身近な匂いから科学捜査まで幅広く活躍する分析手法「SPME」とは - M-hub(SPMEの応用領域・実際の活用事例の解説)