

建設や解体の現場において、既存の鉄骨構造物などに塗布された古い塗料(旧塗膜)の処理は非常にデリケートな問題です。特に高度経済成長期に施工された橋梁やプラントの防錆塗料には、**クロム酸鉛(PbCrO₄)**を主成分とする「黄鉛(クロムイエロー)」が多用されていました 。このクロム酸鉛は鮮やかな黄色い顔料ですが、化学的には非常に興味深い、そして現場管理者にとっては厄介な性質を持っています。それは、水酸化ナトリウム(NaOH)のような強塩基(アルカリ)と接触することで劇的な反応を起こし、溶解してしまうという点です 。
参考)クロム酸鉛に水酸化ナトリウムを加えると、何が生成するのでしょ…
通常、金属の塩は水に溶けにくいものが多いですが、鉛(Pb)は「両性元素」と呼ばれる特殊な性質を持っています。両性元素とは、酸にも塩基(アルカリ)にも反応して溶ける性質のことです 。クロム酸鉛の固体に対して、高濃度の水酸化ナトリウム水溶液が作用すると、鉛イオンは水酸化物イオン(OH⁻)と結合し、錯イオン(テトラヒドロキシド鉛(II)酸イオンなど)を形成して水に溶け出します 。
参考)http://www.eonet.ne.jp/~nakacchi/renshu1.pdf
この化学反応式は以下のように表すことができます。
この反応により、固体の塗膜成分であった鉛と六価クロムが、液体の水溶液中に溶け出します 。現場で「塗膜が溶けてドロドロになる」現象の裏側では、このような化学的な結合の組み換えが起きています。単に塗料が剥がれやすくなっているだけでなく、不溶性(水に溶けない)で安定していた有毒物質が、水溶性(水に溶ける)の極めて活性な状態へ変化していることを理解しなければなりません。これは、物理的な除去作業を化学的なリスク管理へとシフトさせる重要な転換点となります。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/shikizai1937/42/10/42_453/_pdf/-char/ja
参考リンク:クロム酸鉛と水酸化ナトリウムの反応生成物に関する化学的解説
建築現場での塗膜除去作業において、鉛中毒予防規則などの法令に基づき、粉塵の飛散を防止するために「湿潤化」が義務付けられています 。この湿潤化や化学的剥離のために使用される剥離剤には、しばしば強アルカリ性である水酸化ナトリウムや、それに類する有機アルカリ成分が含まれています 。
参考)リペアソルブS 鉛・PCB含有塗膜対応 水系塗膜剥離剤
ここで最大のジレンマが生じます。粉塵として吸い込むリスクを減らすために使用したアルカリ性の剥離剤が、前述の溶解反応を引き起こし、固体の鉛を「濃縮された有毒な液体」に変えてしまうのです。
したがって、アルカリ系剥離剤を使用する場合は、単なる「防塵マスク」だけでは不十分です。アルカリと重金属の両方に対応した「化学防護手袋」や「不浸透性の防護服」の着用が絶対条件となります 。現場監督者は、作業員に対して「濡れているから粉が舞わなくて安全だ」という誤った認識を持たせず、「液体そのものが猛毒である」という認識を徹底させる安全教育が必要です 。
参考)https://www.kensaibou.or.jp/safe_tech/ministries_agencies/files/20140613_01.pdf
参考リンク:鉛中毒予防規則における湿潤化の義務と作業基準
剥離除去された塗膜くずや、使用済みの剥離剤廃液は、そのまま一般の産業廃棄物として捨てることはできません。特に水酸化ナトリウムによってドロドロに溶解したクロム酸鉛を含む廃液は、「特別管理産業廃棄物(廃アルカリ、または毒性有害廃棄物)」に該当する可能性が極めて高いです 。
参考)https://kankyojoho.pref.aichi.jp/junkan/chita/24c082b.pdf
この廃棄プロセスにおいて、処理業者が行うのが「中和」と「不溶化」です。しかし、ここにも化学的な落とし穴があります。
現場で発生した廃液をドラム缶などに回収する際、安易に他の廃酸(塩酸や硫酸など)と混ぜるのは厳禁です。急激な中和反応で熱が発生し、有毒な蒸気が噴き出す危険があるだけでなく、沈殿した有害物質がヘドロ状になって固着し、後の処理コストを増大させる原因になります 。
適切なマニフェスト(産業廃棄物管理票)の発行はもちろんですが、委託する処理業者が「鉛および六価クロムの廃液処理」の許可と技術を持っているかを事前に確認することが、排出事業者(建設会社)の責任として求められます 。
参考リンク:廃酸・廃アルカリに含まれる重金属の適正な無害化処理フロー
ここまでの内容は一般的な化学的知識や法令に基づくものですが、現場レベルで見落とされがちなのが「錯イオン化によるコンクリートや土壌への浸透深化」というリスクです。これは検索上位の記事でもあまり詳しく触れられていない、現場の盲点となる視点です。
通常、鉛の粒子は重いため、水に混ざってもすぐに沈みます。しかし、水酸化ナトリウムと反応して生成されたテトラヒドロキシド鉛(II)酸イオン([Pb(OH)₄]²⁻)は、完全に水に溶けた状態(透明な液体の一部)になっています 。これが何を意味するかというと、通常の物理的なフィルターや、簡易的な沈殿槽(ノッチタンク)では除去できないということです。
参考)一問一答『高校化学/無機/金属イオンの検出(1)』
このリスクを回避するためには、水酸化ナトリウム系剥離剤を使用するエリアの床面には、事前に強力な不浸透性シートを敷設し、コンクリートへの直接触れを完全に防ぐことが重要です。また、漏洩時の緊急対応として、乾燥砂や中和吸収剤(酸性系のものではなく、高分子吸収剤など)を常備し、液体のまま拡散させない準備が不可欠です。
「溶かす」ということは、物質を「見えなくする」ということであり、それが管理の難易度を格段に上げているという事実を、現場の共通認識とする必要があります。
参考リンク:解体工事における有害物質の飛散・流出防止対策マニュアル