

建築現場や土木工事の現場において、作業員の命を一瞬で奪い去る恐ろしい労働災害が「酸素欠乏症(酸欠)」です。目に見えず、においもしない酸素の欠乏は、ベテランの作業員であっても気づかないうちに陥る罠のような危険性をはらんでいます。「ここは大丈夫だろう」という油断が、取り返しのつかない事故につながるのです。本記事では、酸欠の初期症状をチェックするための具体的な指標と、建築現場特有の危険な場所、そして確実に命を守るための対策について、現場監督や職長が知っておくべき情報を網羅して解説します。
人間が生きていく上で不可欠な酸素ですが、空気中には通常約21%の濃度で含まれています。この濃度が少しでも低下すると、人体には即座に悪影響が及び始めます。多くの人が誤解しているのは、「息苦しくなってから逃げれば間に合う」という認識です。しかし、酸欠の恐ろしさは、自覚症状が出た時にはすでに身体の自由が利かなくなっているケースが多いという点にあります。以下に、酸素濃度と現れる症状の関係を詳細に解説しますので、現場での体調チェックに役立ててください。
酸素濃度が18%未満になった状態を「酸素欠乏」と定義しますが、症状は段階的に、かつ急速に悪化します。
・濃度16%~12%:
この段階で、すでに脈拍や呼吸数の増加が見られます。初期症状として、軽い頭痛、耳鳴り、吐き気、悪心などが現れますが、作業に集中していると「単なる疲れ」と勘違いして見逃してしまうことがあります。特に注意すべきは「判断力の低下」です。単純な計算ができなくなったり、精密な作業がおぼつかなくなったりした場合は、直ちに作業を中断し、新鮮な空気のある場所へ退避する必要があります。顔色が青白くなるチアノーゼの症状が出始めるのもこの段階です 。
参考)https://lab-brains.as-1.co.jp/for-biz/2021/10/36403/
・濃度10%~6%:
意識がもうろうとし、立っていられなくなります。大きな声をかけられても反応できなくなり、筋力の低下によって自力での脱出が困難になります。この段階では「助けを呼ぶ」という行動すらとれなくなることが多く、非常に危険な状態です。嘔吐することもあり、気道が詰まって窒息するリスクも高まります。
・濃度6%以下:
瞬時に意識を失い、昏倒します。よく「ひと呼吸で失神する」と表現されますが、これは決して大げさではありません。低濃度の酸素を吸い込むと、肺の中の酸素が逆に血液から奪い取られてしまう「逆拡散」という現象が起き、脳への酸素供給がストップするためです。呼吸中枢が麻痺し、数分以内に心停止に至り死亡します 。
このように、酸欠の症状は「息苦しさ」を感じるよりも前に、脳の機能障害として現れることが特徴です。現場で作業員が「なんとなく頭が痛い」「あくびが頻繁に出る」「やる気が出ない」といった不調を訴えた場合、それは熱中症や疲労だけでなく、酸欠の初期サインである可能性を疑う必要があります。「酸欠チェック」として、作業員の顔色や言動に普段と違う点がないか、常に相互監視することが重要です 。
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厚生労働省の職場のあんぜんサイトでは、酸素欠乏症の具体的な災害事例や詳細な症状の経過が公開されており、安全教育の資料として非常に有用です。
参考リンク:厚生労働省 職場のあんぜんサイト(建築現場での酸欠事故事例と教訓)
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen_pg/sai_det.aspx?joho_no=100727
建築・土木現場には、酸素濃度が低下しやすい「危険な場所」が数多く存在します。タンクやマンホールの中だけが危険だと思っていませんか?実は、意外な場所や作業プロセスそのものが酸素を消費し、酸欠空間を作り出していることがあります。現場の特性を理解し、リスクアセスメントを行うことが不可欠です。
1. コンクリートの養生中
建築現場で最も注意が必要なのが、コンクリート打設後の養生期間です。コンクリートが硬化する過程や、養生のために使用する練炭やジェットヒーターなどの暖房器具は、大量の酸素を消費し、一酸化炭素や二酸化炭素を排出します。特に、冬場に密閉された室内や地下ピットで養生を行う場合、酸素濃度が極端に低下しているケースがあります。「昨日までは大丈夫だった場所」が、翌朝には致死的な酸欠空間に変わっていることがあるのです 。
参考)【第5章】第3節 災害事例④|(一財)中小建設業特別教育協会
2. 鋼材や鉄骨の錆(酸化)
地下室、タンク、鋼管杭の内部など、鋼材が露出している密閉空間では、鉄が錆びる(酸化する)プロセスで空気中の酸素が消費されます。長期間閉鎖されていた鋼製のタンクや、内壁が錆びているピット内に入る際は、中の空気が「死んだ空気」になっている可能性が極めて高いです。水が溜まっている場合、その水が腐敗して微生物が酸素を消費し、さらに硫化水素などの有毒ガスを発生させている複合的な危険もあります 。
参考)酸欠事故は製造業と建設業が高リスク!発生要因からみるリスク回…
3. 有機溶剤の使用や塗装作業
防水工事や塗装工事で使用される有機溶剤は、揮発して空気より重いガスとなり、ピットやタンクの底部に滞留します。これにより空気が押し出され、局所的な酸欠状態が形成されます。また、接着剤の使用や溶接作業で使用するアルゴンガスや窒素ガスなどの不活性ガスも、漏れ出せば酸素を追い出して酸欠を引き起こす直接的な原因となります。
4. 地下ピットや暗渠(あんきょ)
雨水や湧き水が溜まりやすい地下ピットは、有機物が腐敗してバクテリアが酸素を消費するため、典型的な酸欠危険場所です。また、地層によっては酸素を吸収する砂礫層(されきそう)があり、地下を掘削した抗井(こうせい)などでも酸素欠乏空気が湧き出してくることがあります。
これらの場所は、見た目には通常の空間と何ら変わりがありません。だからこそ、立ち入る前の確認が絶対条件となります。特に「蓋が開いていたから換気されているだろう」という思い込みは禁物です。空気より重いガスは底に溜まり続け、自然換気だけでは容易に排出されないからです。
酸欠事故のリスクが高い場所や具体的な対策については、建設業労働災害防止協会などのガイドラインを確認し、作業計画に組み込むことが推奨されます。
参考リンク:労働者健康安全機構 酸素欠乏症とその対策(酸欠のメカニズムと管理体制の解説)
参考)https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/sarchpdf/88_roudoueisei_taisaku.pdf
酸欠事故を未然に防ぐための対策は、法律(酸素欠乏症等防止規則)で厳格に定められています。これらは推奨事項ではなく、遵守しなければならない義務です。現場監督や職長は、以下の3つの柱を中心に安全管理体制を構築しなければなりません。
1. 作業前の酸素濃度測定の徹底
どれほど経験豊富な職人であっても、五感で酸素濃度を判別することは不可能です。必ず「酸素濃度測定器」を使用して、数値で安全を確認してください。
測定時のポイントは以下の通りです。
2. 適切な換気の実施
測定結果が18%以上であっても、作業中に変動する可能性があります。原則として、密閉空間での作業中は継続的に換気を行い、新鮮な空気を送り続ける必要があります。
3. 監視人の配置と連絡体制
タンクやピット内での作業時は、必ず外部に監視人を配置します。監視人は内部の作業員と常に連絡を取り合い、異変があれば即座に退避指示を出せるようにします。また、万が一の事態に備えて、酸素呼吸器や空気呼吸器、梯子(はしご)、ロープなどの救出用具をすぐに使える状態で配備しておくことも義務付けられています。防毒マスクなどの「ろ過式呼吸用保護具」は、酸素自体が足りない環境では全く効果がないため、絶対に使用してはいけません。必ず「給気式」の呼吸器を使用してください 。
現場で使用する測定器の選び方や、正しい換気方法については、専門のレンタル業者やメーカーが提供する技術資料も参考になります。
参考リンク:レックスレンタル 建設業における酸欠事故の原因と対策(測定器の選び方ガイド)
もし現場で同僚が酸欠で倒れたら、あなたはどうしますか?「すぐに助けに行かなければ」という強い正義感と焦りが、最悪の結果を招くことがあります。酸欠事故の統計において、非常に悲しい現実があります。それは、死亡災害の約60%が、救助に入った同僚や仲間であるという事実です。これを「二次災害」と呼びます。
酸欠で倒れた人を見たとき、人間の心理として無防備に駆け寄ってしまいます。しかし、倒れている場所は「ひと呼吸で失神する」ほどの猛毒な空間(酸素のない空間)なのです。救助者がそこに顔を突っ込んだ瞬間、同じように意識を失い、重なって倒れてしまう事例が後を絶ちません 。
正しい救助の手順
「仲間を見捨てるのか」という葛藤があるかもしれませんが、装備なしで飛び込むことは救助ではなく「共倒れ」に直結します。冷徹なようですが、自分自身の安全を確保することが、結果として最速の救助につながるのです。日頃から「何かあったらすぐに入るな、まず換気」という訓練を徹底しておく必要があります。
最後に、なぜ酸欠事故はなくならないのか、その心理的な要因について触れておきます。それは人間の持つ「正常性バイアス」という心理作用です。これは、異常事態に直面しても「自分は大丈夫」「まだ大したことない」と都合よく解釈してしまう心の働きです。
酸欠の現場には、目に見える危険がありません。炎もなければ、崩れそうな壁もありません。ただ空気が澄んでいるように見えるだけです。特に経験豊富なベテラン作業員ほど、「この程度の深さなら大丈夫」「匂いもしないから平気だ」「いつもやっている作業だから」という過去の経験則(ヒューリスティック)に頼ってしまいがちです 。
しかし、酸素濃度は目にも見えず、臭いもしません。人間の五感は酸素を感知できないのです。酸欠事故の多くは、この「正常性バイアス」によって、測定を省略したり、換気が不十分なまま作業を開始したりした結果として発生しています。
また、現場には「酸素のポケット」が存在することも忘れてはいけません。全体の空気が入れ替わっていても、部屋の隅、くぼみ、仕切りの裏側などには、比重の重いガスや酸欠空気が局所的に残存していることがあります。「入り口で測ったから大丈夫」ではなく、「作業するその場所」が安全かどうかを常に疑う姿勢が必要です。
見えない恐怖に対抗する唯一の武器は、客観的な数値(測定結果)と、基本に忠実な行動だけです。「だろう運転」ならぬ「だろう作業」は、酸欠現場では即座に死を意味すると肝に銘じてください。