

建築材料の品質管理や既存不適格建築物の調査において、X線回折(XRD)は欠かせない技術です。その基礎となるのがブラッグの法則ですが、式中に出てくる $n$ の意味を深く理解している建築技術者は意外と少ないかもしれません。ブラッグの法則は以下の式で表されます。
2dsinθ=nλ
ここで、$d$ は結晶面の間隔、$\theta$ はX線の入射角、$\lambda$ はX線の波長、そして $n$ が反射の次数を表す整数(1, 2, 3...)です。この $n$ は単なる係数ではなく、**「波の干渉」**という物理現象の根幹を担っています。
X線が結晶内部に入射すると、原子が規則正しく並んだ層(格子面)のそれぞれで反射が起こります。1層目で反射したX線と、2層目(奥の層)で反射したX線とでは、通ってきた距離にズレが生じます。これを経路差と呼びます。
なぜ $2d \sin \theta$ という式になるのか、そして $n$ がどのように関わるのか、その幾何学的な導出プロセスを確認しましょう。これは現場で測定データのエラー原因(ピークズレなど)を考察する際に役立つ思考法です。
実務において重要なのは、**「$n$ が大きくなると、観測される角度 $\theta$ も大きくなる」**という点です。
| 次数 ($n$) | 式の変形 ($\sin \theta$) | 観測される角度 ($\theta$) | 意味 |
|---|---|---|---|
| $n=1$ | $\sin \theta_1 = \frac{\lambda}{2d}$ | 小さい | 基本的な回折ピーク。最も強度が強く、分析の主役となる。 |
| $n=2$ | $\sin \theta_2 = \frac{2\lambda}{2d} = \frac{\lambda}{d}$ | 大きい | 2次の回折。$n=1$ のピークよりも広角側に現れる。強度は通常下がる。 |
| $n=3$ | $\sin \theta_3 = \frac{3\lambda}{2d}$ | さらに大きい | 3次の回折。高角度側のデータが必要な精密解析で利用される。 |
建築材料の分析では、通常 $n=1$ のピークを用いて物質の同定(クリソタイルやカルサイトの判定)を行いますが、**高次反射($n \ge 2$)**の存在を知っておくことは重要です。例えば、未知のピークが出現した際、それが不純物なのか、あるいは主要成分の2次反射($n=2$)なのかを見極めることで、誤った劣化診断を防ぐことができます。
名古屋工業大学:結晶構造解析 第1章 ブラッグの法則
このリンク先では、ブラッグの法則の幾何学的な導出過程が詳細な図解付きで解説されており、経路差の計算を視覚的に理解するのに役立ちます。
建築解体や改修工事において法的義務となっているアスベスト(石綿)の事前調査。ここで決定的な役割を果たすのが、ブラッグの法則を応用したX線回折法(XRD)です。
アスベストは天然の鉱物であり、固有の結晶構造を持っています。つまり、特定の間隔 $d$ を持っているため、特定の角度 $\theta$ で強い回折ピーク(通常は $n=1$)を示します。
分析実務では、単にピークの有無を見るだけでなく、積分強度(ピークの面積)を用いて含有率を定量します。ここで「$n$」の概念が重要になる意外なケースがあります。それは**「配向(Orientation)」**の問題です。
アスベスト繊維は針状であるため、建材プレパラートを作成する際に繊維が一定方向に並んでしまう(配向する)傾向があります。これにより、特定の結晶面からの反射($n=1$)だけが異常に強くなり、他の面からの反射が見えにくくなることがあります。熟練した分析者は、1次反射($n=1$)だけでなく、2次反射($n=2$)や他の指数面からの弱いピークも確認し、それが本当にアスベストによるものか、あるいは成分が似ているバーミキュライトやセピオライトなどの干渉鉱物ではないかを慎重に判断します。
ブラッグの法則が成立するということは、そこに「結晶」が存在する証明です。逆に言えば、非晶質(アモルファス)であるガラス繊維などは明確な回折ピークを示しません。この原理的な違いが、アスベストと人工鉱物繊維(ロックウールなど)を明確に区別する根拠となっています。
環境管理センター:アスベストの分析手法について
建材中のアスベスト分析において、X線回折法がどのように用いられ、物質固有の回折パターン(ピーク)がどう判定されるかが実務的な視点で解説されています。
最後に、一般的な検索ではあまり上位に出てこない、しかし建築構造の安全性に関わる高度な応用例として、**「ブラッグの法則を用いた残留応力測定」**について解説します。これは $n$ や $d$ の微小な変化を読み取る技術です。
コンクリート内部の鉄筋や、鉄骨造の溶接部には、製造や施工の過程で「残留応力」が生じていることがあります。過度な残留応力は破断のリスクを高めます。これを非破壊で測るために、X線や中性子線を用いた回折法が使われます。
原理は以下の通りです:
また、コンクリート自体の劣化診断でも、セメント水和物である**水酸化カルシウム(ポートランダイト)**のピーク強度が利用されます。コンクリートが中性化すると、水酸化カルシウムは炭酸カルシウム(カルサイト)に変化します。
このように、ブラッグの法則の「$n$(次数)」と「角度」の関係性を理解することは、単なる材料分析を超えて、建築物の構造的健全性(Structural Health Monitoring)を評価する最先端の技術にも繋がっているのです。
日本原子力研究開発機構:中性子で「ひずみ」評価
透過力の強い中性子線を用い、コンクリート内部にある鉄筋の歪みをブラッグの式に基づいて非破壊測定するメカニズムが解説されています。