

建築現場や塗装の現場において、使用する溶剤の「沸点」は作業効率を左右する極めて重要な数値です。乳酸エチルの沸点は約154℃(文献により151~155℃の範囲)とされており、これは一般的な水(100℃)よりも遥かに高く、揮発性の高い有機溶剤とは一線を画す特性を持っています。この「154℃」という数字が、現場での作業に具体的にどのような影響を与えるのかを深く理解することで、適切な用途が見えてきます。
参考)乳酸エチル Ethyl lactate
まず、沸点が高いということは、常温での蒸気圧が低く、揮発しにくいことを意味します。アセトンやラッカーシンナーのように塗布した直後から急速に乾いていく溶剤とは異なり、乳酸エチルは表面に長時間留まります。これは、夏場の気温が高い環境下でも、溶剤がすぐに蒸発してしまわないというメリットにつながります。たとえば、広範囲の脱脂作業や、複雑な形状の部品洗浄を行う際、拭き取り作業の途中で溶剤が乾いてしまい、汚れが再付着してしまうというトラブルを防ぐことができます。
一方で、塗装の希釈剤(シンナー)として使用する場合には注意が必要です。乾燥時間が非常に長くなるため、速乾性が求められるタッチアップ塗装や、ホコリの付着を避けたい仕上げ工程には不向きな場合があります。しかし、その乾燥の遅さを逆手に取り、レベリング(塗料の平滑性)を向上させるためのリターダー(乾燥遅延剤)として添加するという高度な使い方も可能です。
沸点の高さは、単に「乾きにくい」というデメリットだけではなく、「作業可能時間を延ばす」という強力な武器にもなり得るのです。
建築業界で乳酸エチルが急速に普及している最大の理由の一つが、その「安全性」と「法規制上のメリット」です。多くの強力な洗浄用溶剤(トルエン、キシレン、酢酸エチルなど)は、「有機溶剤中毒予防規則(有機則)」の対象となっており、使用にあたっては局所排気装置の設置や作業環境測定、特殊健康診断の実施など、厳格な管理が義務付けられています。これに対し、乳酸エチルはこの有機則に該当しない溶剤として分類されています。
参考)高溶解性、低VOC:コーティング用樹脂洗浄溶剤としての乳酸エ…
有機則非該当であることは、現場監督や安全衛生責任者にとって非常に大きな意味を持ちます。特に、換気設備を大掛かりに設置できないリフォーム現場や、屋内での短時間作業において、コンプライアンスを遵守しながら強力な洗浄力を確保できる点は、代替溶剤としての価値を不動のものにしています。
また、乳酸エチルは食品添加物としても認可されている成分であり、トウモロコシなどの植物由来原料から発酵法で作られることが一般的です。そのため、人体への毒性(LD50値など)も他の石油系溶剤に比べて著しく低く、特有の刺激臭もマイルド(バターやクリームのような甘い香り)であるため、作業者のストレス軽減にも寄与します。
参考)乳酸エチルについて
ただし、いくら安全とはいえ「消防法」上の規制は受けます。
「安全だから」といって無防備に使用してよいわけではなく、保護手袋や保護メガネの着用、適切な換気は、建築現場の基本ルールとして徹底する必要があります。特に、有機則非該当であっても、SDS(安全データシート)に基づいたリスクアセスメントは必須です。
「安全な溶剤は汚れが落ちない」という常識は、乳酸エチルには当てはまりません。乳酸エチルは極めて高い溶解力(KB値やSP値で示される溶解パラメータ)を持っており、建築現場で頻繁に遭遇する厄介な汚れに対して強力な効果を発揮します。特に、未硬化のエポキシ樹脂やウレタン樹脂、油性マジック、固着したグリスなどの洗浄において、シンナーと同等かそれ以上のパフォーマンスを見せることがあります。
その秘密は、乳酸エチルの分子構造にあります。親水性の基(水になじむ部分)と親油性の基(油になじむ部分)の両方を持っているため、幅広い種類の樹脂や油分に浸透し、溶かすことができるのです。この特性により、水性塗料の洗浄から油性塗料の機器洗浄まで、一本でマルチに対応できる「万能洗浄剤」としての地位を確立しています。
具体的な用途例を挙げます:
一方で、その強力な溶解力ゆえに、プラスチック素材への攻撃性(樹脂への影響)には注意が必要です。
参考リンク:東邦化学工業株式会社 - 乳酸エチルの樹脂溶解性データ
(※このリンク先には、PVCやポリスチレンに対する膨潤・溶解性が詳細に記載されており、素材選定の重要な判断材料となります。)
例えば、塩化ビニル(PVC)やポリスチレン(PS)、ポリカーボネート(PC)などは、乳酸エチルが付着すると表面が白化したり、膨潤して変形したりする可能性があります。養生シートや周囲の建材に付着しないよう注意するか、事前に目立たない場所でテストを行うことが、プロの仕事として求められます。
現場で適切な溶剤を選定するためには、使い慣れた他の溶剤との定量的な比較が不可欠です。ここでは、建築現場で多用されるアセトン、酢酸エチル、および一般的な塗料用シンナー(トルエン・キシレン混合物を想定)と乳酸エチルを比較し、その立ち位置を明確にします。
以下の表は、主要な物性データを比較したものです。
参考)有機溶媒の沸点一覧表 - ナノミストテクノロジーズ
| 項目 | 乳酸エチル | アセトン | 酢酸エチル | 塗料用シンナー |
|---|---|---|---|---|
| 沸点 | 154℃ | 56℃ | 77℃ | 110~140℃ |
| 引火点 | 約54℃ | -20℃ | -4℃ | 5~25℃ |
| 揮発速度 | 遅い | 極めて速い | 速い | 普通~速い |
| 有機則 | 非該当 | 第2種 | 第2種 | 第2種など |
| 水溶性 | 完全溶解 | 完全溶解 | 8%程度 | 不溶 |
| 臭気 | マイルド | 刺激臭 | 刺激臭 | シンナー臭 |
この表から読み取れる乳酸エチルの最大の特徴は、圧倒的に高い沸点と引火点です。
アセトンは引火点が氷点下であり、冬場でも静電気火花一つで引火するリスクがありますが、乳酸エチルの引火点は50℃以上です。これは、真夏の炎天下でない限り、常温で液面にマッチを近づけても簡単には火がつかない(蒸気濃度が爆発下限に達しにくい)ことを意味し、保管や取り扱いにおける安全マージンが非常に大きいと言えます。
また、水溶性である点も見逃せません。乳酸エチルで洗浄した後の刷毛や容器は、最終的に水洗いで仕上げることができます。油性溶剤でありながら水で流せるという性質は、廃液処理の減量化や、手洗い時の負担軽減にもつながります。
コスト面では、汎用シンナーに比べて乳酸エチルはリッター単価が高くなる傾向にあります。しかし、揮発によるロスが少ないため(蓋を開けていてもすぐには減らない)、実質的な使用量は抑えられるケースが多く、トータルコストでは拮抗することもあります。
これは、検索上位の一般的な解説記事にはあまり詳しく書かれていない、現場叩き上げの職人だからこそ知る「乳酸エチル独自」の活用テクニックです。多くの人は「乾きにくい=作業性が悪い」と捉えがちですが、実はこの**「乾きにくさ」こそが、頑固な汚れを落とす最強の武器**になります。
アセトンなどの低沸点溶剤を使って、こびりついた古い塗料や接着剤を落とそうとした経験はないでしょうか?ウエスに溶剤を含ませて拭いても、汚れに浸透する前に溶剤自体が揮発してしまい、何度も溶剤を継ぎ足しながらゴシゴシ擦る羽目になります。これは溶剤の無駄遣いであるだけでなく、作業者の疲労も蓄積します。
ここで、沸点154℃の乳酸エチルの出番です。
例えば、床にこびりついた硬化後のエポキシ樹脂の滴下跡などは、乳酸エチルを垂らして30分ほど放置してからスクレーパーを入れると、驚くほどスルリと剥離できます。速乾性溶剤では不可能な芸当です。
「急がば回れ」という言葉通り、すぐに乾かない乳酸エチルを使って「時間を味方につける」洗浄方法は、特に人手が足りない現場や、物理的な力を使えないデリケートな母材の洗浄において、劇的な効率アップをもたらします。高沸点という物理特性をデメリットではなくメリットとしてハックする、これこそがプロの知恵と言えるでしょう。

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