

計画を作って市町村に出せば、それで終わりだと思っていませんか?実は訓練未実施のまま放置すると、市町村長から公開の場で氏名を「公表」される法的手続きが始まります。
避難確保計画は、大雨による浸水や土砂災害が発生するおそれがあるとき、施設利用者の円滑かつ迅速な避難を確保するために必要な事項を定めた計画です。根拠法令は水防法第15条の3・土砂災害防止法・津波防災地域づくりに関する法律(津波法)の3本立てとなっています。
この制度が生まれた背景には、毎年繰り返される甚大な水害があります。平成28年台風第10号では岩手県の小本川が氾濫し、グループホームの入居者9名が亡くなりました。令和2年7月豪雨では熊本県球磨川の氾濫により、避難確保計画を作成済みだった特別養護老人ホームで14名の入居者が犠牲となっています。この悲劇を受けて令和3年7月に水防法が改正され、避難訓練の結果を市町村長へ報告することが新たに義務化されました。つまり計画を作るだけでは不十分という認識が、法律レベルで明記されたということです。
対象となる施設の定義は明確です。水防法第15条第1項第4号ロにおいて「社会福祉施設、学校、医療施設その他の主として防災上の配慮を要する者が利用する施設」と規定されています。具体的には、老人福祉施設・有料老人ホーム・認知症グループホーム・障害者支援施設・保護施設・児童福祉施設・幼稚園・小中高等学校・特別支援学校・高等専門学校・病院・診療所・助産所などが含まれます。これは非常に広い範囲です。
ただし、すべての要配慮者利用施設に義務が課されるわけではありません。義務が発生する条件は2つあります。①浸水想定区域(洪水・雨水出水・高潮・津波)内または土砂災害警戒区域内に施設が立地していること、②施設の名称および所在地が市町村の地域防災計画に記載されていること、この2条件を同時に満たす場合のみ対象となります。対象条件が条件次第ということですね。
建築業に従事する立場でいえば、要配慮者利用施設の新築・改築・用途変更に関わる際、施設がどのハザードマップ区域に位置するかを設計段階から把握し、施設管理者に対して計画作成義務の発生可能性を説明することが重要な付加価値となります。
国土交通省「自衛水防(企業防災)について(要配慮者利用施設の浸水対策)」 ― ひな形・手引き・eラーニング教材の一括ダウンロードページ
ひな形は国土交通省が無料で公開しています。入手先は国交省の「自衛水防(企業防災)について」ページで、Excel形式(.xlsx)とWord形式(.doc)の両方がダウンロード可能です。各市区町村も独自の様式を公開していることが多く、提出先の自治体が指定する様式がある場合はそちらを優先します。様式が指定されていない場合は国交省版ひな形がそのまま使えます。
水防法施行規則・土砂災害防止法施行規則・津波法施行規則が定める必須記載事項は以下の5項目です。
これら5項目が原則です。中でも実務上の注意点が「防災体制」の記載です。単に「避難誘導を行う」と書くだけでは不十分で、気象庁の警戒レベル1~5それぞれに対応した体制の確立基準を具体的に記載する必要があります。例えば「警戒レベル3(高齢者等避難)が発令された時点で総括指揮者に情報連絡し、施設利用者の避難誘導を開始する」といった具合に、誰が何をいつするのかを時系列で明示することが求められます。
避難先の記載も要注意です。避難先としては「立退き避難」と「屋内安全確保(垂直避難)」の2種類があります。浸水深が施設の最上階を超える場合や「家屋倒壊等氾濫想定区域」に該当する場合は、垂直避難ではなく立退き避難を選択しなければなりません。家屋倒壊等氾濫想定区域は、堤防決壊後の激しい氾濫流や河岸侵食が発生することが想定される特に危険な区域で、こうした区域に所在する施設では、たとえ3階建て以上であっても「施設内の上の階に逃げれば安全」という判断は誤りです。これは建築業者として施設設計時に必ず伝えるべき情報です。
国土交通省「要配慮者利用施設における避難確保計画の作成・活用の手引き(令和4年3月版)」 ― 記載方法の詳細解説、チェックリスト、タイムライン様式を含む公式手引き(PDF)
「また新しい計画を一から作るのか…」と思った担当者も多いはずです。実は避難確保計画は、既存の計画に必要事項を追記することで、新規書類を作らずに対応できます。これは国土交通省の公式手引きが明確に認めている方法です。
一体化できる既存計画は主に3種類あります。消防法に基づく「消防計画」、社会福祉施設に義務付けられている「非常災害対策計画」、そして学校に作成が求められている「危機管理マニュアル」です。これらの計画に、先述した5つの必須記載事項を加えることで避難確保計画として成立します。
ただし注意点が1つあります。既存計画と兼ねる場合であっても、作成・変更後は市町村長への報告(提出)は必須です。「消防計画に追記したから消防署に届けたので終わり」とはならないということですね。必ず防災担当の市区町村窓口にも提出が必要です。
避難確保計画と消防計画・非常災害対策計画の大きな違いは、対象とする災害種別です。消防計画は主に火災対応が中心で、避難確保計画は水害・土砂災害・津波が対象です。BCPとの関係でいえば、BCPは地震を含む全災害が対象なのに対し、避難確保計画は水害のみが対象という整理になります。また、BCPは市町村への提出義務がありませんが、避難確保計画は提出が法律で定められている点が大きな違いです。
建築業者が施設の改修工事や竣工後のアフターフォローとして、施設管理者に対してこの「一体化」の方法を案内することは、コストと手間の両面で施設管理者の負担を大幅に減らせる有益な情報です。これは使えそうです。
「能登豪雨から考える水害対応(2) 避難確保計画とBCP」 ― 避難確保計画とBCPの相違点を実践的に解説したブログ記事
計画を作って提出したら終わりではありません。令和3年7月施行の改正水防法により、避難訓練の実施と結果の報告が新たに義務化されています。訓練は原則として年1回以上の実施が必要で、実施後おおむね1か月以内を目安に市町村長へ報告書を提出しなければなりません。
訓練報告書に記載が求められる主な内容は次の通りです。
訓練の種類は「立退き避難訓練」だけが正解ではありません。施設の規模や入所者の状況に応じて、机上(図上)訓練・情報伝達訓練・避難経路確認訓練など複数の形式を組み合わせることができます。車椅子利用者が多い特養などでは、全員を屋外に避難させる実動訓練は現実的に困難なケースも多く、図上訓練を活用して課題を洗い出す方法が有効です。
訓練結果を受けて、市町村長は施設管理者に対して「助言」または「勧告」を行うことができます(水防法第15条の3第6項)。勧告を受けても正当な理由なく改善しない場合、さらに「指示」が行われ、それでも計画を作成しない施設については市町村長がその旨を「公表」できる仕組みになっています。指示・公表まで至った場合、施設の社会的信頼は大きく損なわれます。
建築業者として施設の竣工引渡し時に、施設管理者へ「訓練は年1回の実施と報告が法律上の義務」と一言添えることが、後々のトラブル防止につながります。設計・施工段階で避難経路の動線や避難設備の配置を計画書に反映しておくと、管理者側の計画作成作業も格段に楽になります。
愛知県碧南市「水防法の概要 −避難確保計画について知るために−」 ― 水防法の改正経緯・義務の全体像・訓練報告の義務を図表でわかりやすく解説(PDF)
避難確保計画は施設管理者が作るもの、と思われがちです。しかし実際には、計画の実効性は「建物の設計」に大きく左右されます。設計時点での判断が、後から変えられない避難計画の限界を決めているといっても過言ではありません。これが建築業従事者が知っておくべき重要な観点です。
たとえば避難先の選定では、施設が「家屋倒壊等氾濫想定区域」に入っている場合、2階や3階への垂直避難を計画書に記載しても認められません。それどころか、そのような立地に入所型施設を設計する場合は、設計段階で施設管理予定者に対し「立退き避難が必要な区域である」旨を説明し、施設外避難先の確保・アクセス路の確保まで計画に組み込む必要があります。
避難に要する時間と施設設計の関係も重要です。国交省の手引きでは、避難開始基準の設定に「避難に要する時間」を先に算出するよう求めています。計算式は大まかに「移動時間+施設内準備時間(要介護者の場合は移乗・着替えなどを含む)」です。例えば50名の高齢者を施設外避難場所(徒歩5分先)へ移送する場合、車椅子5台・歩行補助4名のスタッフが必要となると1回の搬送で最大20名、全員避難まで最低3往復が必要になる計算です。こうした避難可能人数の試算を踏まえた避難経路の幅員・駐車スペース・車寄せ面積の設計が、計画の実効性に直結します。
タイムラインの作成もひな形に含まれる重要ツールです。タイムラインとは、気象情報・警戒レベルの発令状況に応じて「誰が・何を・いつ・どの順序でやるか」を時系列で整理した行動計画表です。国交省の手引き第10章にタイムラインのひな型が掲載されており、施設規模に合わせて自由にカスタマイズできます。竣工後に施設管理者へタイムライン作成の説明をセットで行うと、施設側の信頼を大きく高めることができます。
また、施設が浸水想定区域外に立地していても、周辺の道路冠水によって避難経路が遮断されるケースがあります。2020年代以降の気候変動による豪雨頻発化を踏まえると、ハザードマップの浸水区域外であっても、地形・排水計画・周辺河川の状況を設計段階で精査し、施設管理者に正確な情報を伝えることが建築業者の責任といえます。
宮城県「要配慮者利用施設の避難確保計画作成について」 ― 計画未作成時の指示・公表制度など法的手続きの詳細が記載された行政資料(PDF)
現場でよく起きる混同や誤解を整理しておきます。
まず「ハザードマップで浸水想定区域外なら義務なし」という誤解についてです。これは原則正しいですが、土砂災害警戒区域については浸水想定区域とは別に指定されています。川から離れた丘陵地に立地する施設でも、急傾斜地や土石流危険渓流の近くに位置する場合は対象になり得るので、ハザードマップの浸水版だけを確認して「うちは関係ない」と判断するのは危険です。ハザードマップは洪水・内水・高潮・津波・土砂災害の5種類を確認することが基本です。
次に「地域防災計画への記載が必要条件」という点を見落としているケースがあります。浸水想定区域内に立地していても、市町村の地域防災計画に施設名・所在地が記載されていなければ、法律上は避難確保計画の作成義務が発生しません。ただし実務上は、対象となりうる施設はほぼすべて記載されているケースがほとんどで、「記載されていないから作らなくていい」という解釈は行政との関係でトラブルの原因になります。施設が新設の場合は市町村に確認するのが確実です。
「消防計画があるから避難確保計画は不要」という誤解も根強くあります。先述の通り、消防計画は火災対応が主目的で、水害・土砂災害は対象外です。消防計画に追記して一体化することは認められていますが、そのままの消防計画が避難確保計画を兼ねるわけではありません。追記後に市町村へ報告・提出する手順が必ず必要です。
ひな形の「様式」は自治体ごとに微妙に異なる場合があります。複数の市区町村にまたがって施設を展開する運営法人の場合、各自治体の最新様式を個別に確認することが必要です。国交省版ひな形はあくまでも基本ベースであり、自治体が独自様式を持っている場合はそちらを使うのが安全です。提出前に担当窓口へ一度確認することをおすすめします。
計画・訓練・報告という3ステップのループが義務の核心です。このサイクルが回っていてこそ、法令遵守と施設利用者の安全確保の両立が実現します。建築業者がこの仕組みを深く理解し、施設完成後のフォローアップ情報として施主に提供することは、差別化につながる強みになります。
国土交通省「要配慮者利用施設における避難確保に関するeラーニングテキスト」 ― 計画作成の手順・チェックポイント・記載例が網羅されたセルフラーニング用教材(PDF 5.2MB)