

建築現場や塗装工事において「酸化鉛」という言葉を耳にするとき、それが指す物質の色は一つではありません。酸化鉛は、鉛と酸素の結合状態(酸化数)によって全く異なる色を示し、それぞれ用途も異なります。最も一般的なのは「一酸化鉛(PbO)」と「四酸化三鉛(Pb3O4)」であり、これらは現場での識別において重要な意味を持ちます 。[1]
まず、一酸化鉛(PbO)は、通称「密陀僧(みつだそう)」や「リサージ」と呼ばれ、その色は黄色、あるいは赤みを帯びた黄色をしています。これは主に乾燥剤や塩化ビニルの安定剤、あるいは陶磁器の釉薬として使用されてきました。一方、建築塗装の分野で最も馴染み深いのが四酸化三鉛(Pb3O4)、通称「鉛丹(えんたん)」です。これは非常に鮮やかなオレンジ色に近い赤色をしており、JIS規格(日本産業規格)において長らく「錆止め塗料」の代名詞として君臨してきました 。
参考)https://omotosenko.com/blog/%E6%9F%93%E8%89%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%B5%A4-%E9%A1%94%E6%96%99%E7%B7%A8
さらに、**二酸化鉛(PbO2)という形態も存在し、これは黒褐色(こげ茶色から黒色)**をしています。このように、同じ「酸化鉛」であっても、黄色、赤色、黒色と色が劇的に変化することを理解しておくことは、既存塗膜の成分調査や劣化診断を行う上で非常に重要です。例えば、解体現場で黄色い粉末状の層が見つかった場合、それが単なる古い断熱材なのか、鉛を含む層なのかを疑う一つの指標になり得ます 。
参考)https://orist.jp/dl/izumi/archive/Gijutsu_shiryo/Y2.pdf
建築用語辞書:鉛丹(エンタン)の解説と酸化鉛の別名について
なぜ、昔の鉄骨や橋梁はあんなにも鮮やかな「赤色」で塗られていたのでしょうか。その答えは、酸化鉛の一種である「鉛丹」の優れた防錆能力にあります。かつてのJIS K 5622(鉛丹さび止めペイント)で規定されていた塗料は、顔料として鉛丹を使用していたため、塗料そのものが必然的に特有の**鉛丹色(明るい朱色)**をしていました 。[4][5]
この鉛丹色は、単なる着色ではありません。鉛丹(四酸化三鉛)は、鉄の表面において化学的に非常に安定した不動態被膜を形成する作用を持っています。鉄と反応して不溶性の化合物を生成し、水分や酸素の侵入を防ぐことで、強力な錆止め効果を発揮してきました。そのため、高度経済成長期に建設された多くのビルや東京タワーなどの鉄塔、橋梁の下塗りには、この鉛丹が大量に使用されています 。
参考)錆止め塗料とは?選び方・種類・防錆効果について解説
しかし現在では、鉛の毒性や環境負荷への懸念から、JIS K 5674「鉛・クロムフリーさび止めペイント」が主流となり、鉛を含まない変性エポキシ樹脂塗料などが使われています 。興味深いのは、現在の鉛フリー錆止め塗料にも「赤さび色」という色がラインナップされている点です。これは、長年の慣習で「錆止め=赤」という認識が現場に定着しているため、酸化鉄(ベンガラ)などを用いてあえて似た色調(ただし鉛丹よりは暗い赤茶色が多い)に調色しているケースが多いためです。つまり、現場で「赤い錆止め」を見たからといって、必ずしもそれが有毒な鉛丹であるとは限らず、色味の明度や彩度(鉛丹はより鮮やかでオレンジに近い)で見分ける眼力が必要とされます 。
参考)錆止め塗料の効果は?防錆塗料の種類・価格・効果を発揮させる方…
錆止め塗料の選び方と色の種類、鉛系から鉛フリーへの変遷
酸化鉛を含む塗料や顔料には、経年劣化によって色が劇的に変化する特異な性質があります。特に注意が必要なのが「黒変(こくへん)」と呼ばれる現象です。これは、酸化鉛が空気中や雨水に含まれる微量の硫黄成分(硫化水素など)と反応し、**硫化鉛(PbS)**という黒色の物質に変化することで発生します 。[10][3]
この現象は、古い建造物の修復現場などで「赤かったはずの塗装が黒ずんでいる」という形で現れます。美術品や文化財の分野では「鉛白(塩基性炭酸鉛)」が黒変する現象が有名ですが、建築における鉛丹も同様のリスクを持っています。例えば、交通量の多い道路沿いの鉄骨や、温泉地に近い施設の鉄部などで、鉛系錆止め塗料が黒く変色している事例が見られます。これは単なる汚れ(煤煙)と誤認されやすいですが、化学変化による変色であるため、洗浄しても元の色には戻りません。
対策としては、鉛系顔料の上から遮蔽性の高い上塗り塗料(トップコート)を確実に施工し、直接外気に触れさせないことが基本でした。しかし、現在ではそもそも鉛系塗料を使用しないことが根本的な対策となっています。リフォームや改修工事の現場調査において、既存塗膜が異常に黒ずんでいる場合、その下層に古い鉛系塗料が潜んでいる可能性(黒変した層)を考慮し、剥離作業時の安全対策レベルを引き上げる判断材料にする必要があります。
亜鉛めっきの酸化による変色と塗膜特性に関するQ&A
現代の建築従事者にとって、酸化鉛の色について知る最も切実な理由は、既存塗膜の「除去」と「処分」に関わる厳しい法規制です。2021年(令和3年)の「鉛中毒予防規則」の改正により、橋梁や鋼構造物の補修・解体工事において、鉛等有害物を含む塗膜を掻き落とす作業に対する規制が大幅に強化されました 。[11][12]
かつてのように、ディスクサンダーやケレン棒で乾いたまま塗膜を削り取る(乾式工法)ことは、高濃度の鉛粉塵を飛散させるため、原則として禁止または極めて厳重な管理(呼吸用保護具の着用、湿潤化など)が求められます。ここで重要なのが、先述した「鉛丹色」の識別です。鮮やかなオレンジ色の下塗りが露出した場合、高確率で鉛を含有しています。しかし、上塗りが重ねられている場合や、黒変している場合は目視での判断が困難です。そのため、事前に「鉛含有試験」を行うことが義務付けられています 。
参考)https://jsaa.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/04/63cf0e98383c2aca3a037a16d7444fbd.pdf
もし鉛が含まれていると判明した場合、環境への配慮から「湿式剥離剤」を使用して、塗膜を湿らせた状態でシート状に剥がし取る工法が推奨されています。剥がし取った塗膜片(特別管理産業廃棄物に該当する可能性がある)は、通常の建設廃棄物とは区別し、遮水性のある容器に密封して保管・処分しなければなりません。この工程を無視して安易に研磨作業を行うと、作業員の血中鉛濃度の上昇による健康被害だけでなく、労働基準監督署からの是正勧告や工事停止命令、さらには施主への信頼失墜につながる重大なリスクとなります 。
参考)https://www.mhlw.go.jp/content/11300000/001413689.pdf
厚生労働省:鉛等有害物を含有する塗膜の剥離やかき落とし作業における労働安全衛生対策
検索上位の情報ではあまり触れられませんが、酸化鉛の「色」は、神社仏閣などの伝統建築の保存修理においても極めて重要なテーマです。神社の鳥居や社殿のあの赤い色は、一般的に「朱塗り」と呼ばれますが、実はその顔料には大きく分けて「ベンガラ(酸化鉄赤)」、「朱(硫化水銀)」、そして「鉛丹(酸化鉛)」の3種類が存在し、時代や地域、予算によって使い分けられてきました 。[16][2]
特に鉛丹は、その鮮烈なオレンジ色が「魔除け」の意味を持つとともに、木材の防腐・防虫効果を期待して多用されました。しかし、現代の修復工事において、これらを肉眼で見分けることはプロでも至難の業です。ベンガラはやや沈んだ渋い赤、水銀朱は深みのある鮮やかな赤、鉛丹は明るいオレンジ寄りの赤という傾向はありますが、経年劣化や退色により境界は曖昧になります。
独自視点として注目すべきは、近年の修復現場における「色の再現と安全性のジレンマ」です。文化財修復では「当初の材料」を使うことが原則ですが、鉛丹の毒性と環境規制により、使用が難しくなっています。そのため、現代の修復では、見た目の色(マンセル値)を鉛丹色に限りなく近づけた、耐候性の高いフッ素樹脂塗料や、毒性の低い代替顔料(ジルコニウム系や有機顔料の組み合わせ)が開発され、採用されるケースが増えています。しかし、一部の厳格な宮大工や保存会では、伝統的な製法と発色、そして防腐性能にこだわり、特別な許可と管理下で本物の鉛丹を使用し続ける例もあります。この「伝統の赤」を守るための技術的な葛藤は、単なる化学物質の代替以上の深い文化的課題を含んでいるのです。
平安宮の赤い色:ベンガラと鉛丹の使い分けに関する調査報告