フタル酸ジエチルNMR解析と可塑剤の化学シフト構造

フタル酸ジエチルNMR解析と可塑剤の化学シフト構造

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フタル酸ジエチルとNMR

フタル酸ジエチルNMR解析の要点
📊
スペクトル解析

化学シフトとカップリング定数から分子構造を特定

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溶媒の選定

重クロロホルム(CDCl3)を用いた測定が一般的

🏗️
建材への応用

可塑剤の品質管理と劣化診断への活用技術

フタル酸ジエチルのNMRスペクトルと化学シフトの基礎

 

建築業界において、接着剤シーリング材、塗料の性能を左右する「可塑剤」の存在は無視できません。その中でもフタル酸ジエチル(DEP)は、かつて広く使用され、現在でも特定の用途で見られる化合物です。この物質が実際に製品に含まれているか、あるいは不純物として混入していないかを確認するための最も強力なツールが、核磁気共鳴装置(NMR)です。現場監督や建築士として、材料のスペックシート(SDS)を見る機会は多いでしょうが、そのデータがどのように導き出されているかを知ることは、品質トラブルを未然に防ぐ知識として役立ちます。
NMR(Nuclear Magnetic Resonance)スペクトルは、分子内の原子核が磁場に対してどのように反応するかをグラフ化したもので、人間でいうところのMRI検査のようなものです。フタル酸ジエチルの1H-NMR(プロトンNMR)スペクトルを見ると、その分子構造の特徴が化学シフト(ppm値)として明確に現れます。


  • 化学シフト(Chemical Shift)の基本
    横軸にppm(百万分率)という単位を取り、基準物質(通常はテトラメチルシラン、TMS)を0 ppmとして、各原子の「置かれている環境」を表示します。フタル酸ジエチルの場合、主に3つの特徴的なシグナル群が観測されます。


    • 芳香族プロトン:ベンゼン環に結合している水素。7.5〜7.7 ppm付近に現れます。これはフタル酸エステル類に共通する特徴ですが、置換基の位置によって微妙に形が変わります。

    • メチレン基(-CH2-):エチル基の中にある、酸素原子に隣接した水素。4.0〜4.5 ppm付近に現れます。酸素の電気陰性度の影響を受けて、低磁場側(数値が大きい方)にシフトします。

    • メチル基(-CH3-):エチル基の末端にある水素。1.0〜1.5 ppm付近に現れます。

これらのシグナルは単なる棒グラフではなく、**スピン-スピン結合(カップリング)**によって分裂して見えます。この分裂パターン(マルチプレット)を読み解くことが、解析の第一歩となります。例えば、隣に水素が2つあるメチル基は「トリプレット(三重線)」になり、隣に水素が3つあるメチレン基は「カルテット(四重線)」になります。この「3重線と4重線のセット」こそが、エチル基が存在する決定的な証拠となるのです。建築現場で例えるなら、設計図の寸法と実際の施工寸法がピタリと合うかを確認するような作業が、このスペクトル解析にあたります。
測定対象の純度が高い場合、スペクトルは非常にきれいに現れますが、実際の建築資材から抽出したサンプルでは、添加剤やポリマーのピークが重なり、解析は複雑になります。だからこそ、基礎的な化学シフトの位置を正確に把握しておくことが、異常検知のスキルとして重要になるのです。
日本の試薬メーカーによる詳細な製品情報ページです。フタル酸ジエチルの基本物性やCAS番号などが確認できます。
参考)フタル酸ジエチル

フタル酸ジエチル | DropChem

フタル酸ジエチルのNMR解析手順と重クロロホルム溶媒

NMR測定を行う際、最も重要なのが「溶媒」の選択です。建築現場で適切な接着剤を選ばないと施工不良が起きるのと同様に、NMR測定でも適切な溶媒を使わないと正確なデータは得られません。フタル酸ジエチルのような有機化合物の解析において、世界標準として最も頻繁に使用されるのが**重クロロホルム(CDCl3)**です。
なぜ普通のクロロホルム(CHCl3)ではなく、重クロロホルムを使うのでしょうか。これには明確な理由があります。
通常のクロロホルムには水素原子(プロトン)が含まれています。もしこれを溶媒として使ってしまうと、溶媒自体の水素の量が圧倒的に多いため、測定したいフタル酸ジエチルの微量なシグナルが、溶媒の巨大なピークにかき消されて見えなくなってしまうのです。そこで、水素(H)を同位体である重水素(D)に置き換えた重クロロホルムを使用します。重水素は1H-NMRではシグナルとして検出されないため、背景が「透明」になり、見たい物質だけを浮かび上がらせることができるのです。
解析の具体的な手順は以下の通りです:


  1. サンプルの調製
    建築材料(シーリング材や床材など)から、有機溶媒を使って可塑剤成分を抽出します。抽出した液体を乾燥させ、微量の重クロロホルム(約0.6 mL程度)に溶解させます。このとき、濃度が薄すぎるとノイズに埋もれ、濃すぎると粘性が増して分解能が落ちるため、適切な濃度調整が職人技のように求められます。

  2. 基準ピークの確認
    測定されたスペクトルの中で、まず最初に探すのは「7.26 ppm」にある小さなシングレット(一本線)のピークです。これは、重クロロホルムの中にわずかに(100%重水素化するのは不可能なため)残存しているCHCl3のプロトンシグナルです。このピークを基準として、全体の目盛り(化学シフト)を補正します。この作業は、測量における「ベンチマーク(BM)合わせ」と全く同じ意味を持ちます。

  3. シグナルの積分(インテグレーション)
    各ピークの面積を計算します。フタル酸ジエチルの場合、構造式から水素の数の比率がわかっています。


    • 芳香環の水素:4個

    • メチレン基(-CH2-)の水素:4個(2つのエチル基の合計)

    • メチル基(-CH3-)の水素:6個(2つのエチル基の合計)
      この比率が「4:4:6(つまり2:2:3)」になっているかを確認します。もしこの比率がずれていれば、他の物質が混ざっているか、分解している可能性があります。

重クロロホルムは安価で溶解力が高いため重宝されますが、酸性度があり、一部の敏感な化合物を分解させるリスクもあります。しかし、フタル酸ジエチルのようなエステル類は比較的安定しているため、この標準的な溶媒で非常にきれいなデータが得られます。
有名な試薬メーカーSigma-AldrichによるNMR溶媒の解説記事です。重クロロホルムの特性や基準ピークについて詳しく学べます。
参考)https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/products/analytical-chemistry/analytical-chromatography/solvents/nmr-solvents

NMR用溶媒の基礎知識と化学シフト一覧

フタル酸ジエチルNMRにおけるプロトンシグナルの帰属

ここでは、より専門的な視点で、フタル酸ジエチルの「どの部分」が「どの波形」になっているのか、その詳細な**帰属(Assignment)**を見ていきましょう。建築図面で言うところの「詳細図」や「矩計図」に相当する部分です。この微細な違いを理解することで、類似の可塑剤(例えばフタル酸ジブチルなど)との見分けがつくようになります。
フタル酸ジエチル(C12H14O4)は対称性の高い分子です。ベンゼン環を中心に、左右に同じエチルエステル基がついています。この「対称性」がNMRスペクトルをシンプルかつ美しくします。


  • 1.3 ppm付近のトリプレット(t)
    これは末端の**メチル基(-CH3)**由来です。3本の線に分裂しているのは、隣接するメチレン基(-CH2-)にある「2個の水素」の影響を受けるからです(n+1則により、2+1=3本に分裂)。この結合定数(J値)は通常7 Hz程度です。このピークが綺麗に3本に見えれば、エチル基の末端構造が健全であることがわかります。

  • 4.2 ppm付近のカルテット(q)
    これは酸素原子に直接結合している**メチレン基(-O-CH2-)**由来です。酸素原子は電子を引っ張る力が強いため、周囲の電子密度を下げ、結果としてプロトンは磁場の影響を強く受け、化学シフト値が大きく(低磁場側に)移動します。4本の線に分裂するのは、隣のメチル基にある「3個の水素」の影響です(3+1=4本)。

  • 7.5 ppmと7.7 ppm付近のマルチプレット(m)
    これは**ベンゼン環(芳香族)**のプロトンです。フタル酸エステルの場合、AA'BB'系と呼ばれる少し複雑な対称パターンを示します。


    • 7.7 ppm付近:エステル基(カルボニル基)に近い位置(2,5位)のプロトン。カルボニル基の電子吸引性により、より低磁場側にシフトします。

    • 7.5 ppm付近:エステル基から遠い位置(3,4位)のプロトン。
      この2つの塊が左右対称のような形で現れるのが、オルト置換ベンゼン(フタル酸誘導体)の典型的な特徴です。

もし、この7 ppm付近のピークが崩れていたり、別のピークが混ざっていたりする場合、それは「異性体(イソフタル酸やテレフタル酸)」が混入しているか、あるいは全く別の芳香族化合物が含まれている可能性を示唆します。例えば、安価な可塑剤として混ぜ物をされた場合、この芳香族領域のパターンが微妙に変化します。熟練した分析官は、この「波形の顔つき」を見ただけで、「あ、これは純粋なDEPではないな」と直感的に気づくことができるのです。
化学情報サイトChem-Stationによる、NMR溶媒中の不純物ピークに関する詳細なまとめ記事です。
参考)NMR Chemical Shifts ー溶媒のNMR論文よ…

NMR溶媒および不純物の化学シフトデータ集

フタル酸ジエチルNMRデータと建築材料への応用

では、これら難解なNMRデータは、実際の建築現場や資材管理においてどのように役立つのでしょうか?実は、品質管理(Quality Control)リスク管理の観点で非常に重要な役割を果たしています。特に、海外からの輸入建材が増えている現代において、その重要性は増しています。


  1. 輸入建材の成分偽装チェック
    コストダウンのために、仕様書とは異なる安価な可塑剤が使われているケースがあります。例えば、耐候性が求められる屋外用シーリング材に、揮発しやすいフタル酸ジエチルが過剰に含まれていると、早期に「肉痩せ」や「ひび割れ」が発生します。NMRを使えば、数ミリグラムのサンプルで、製品に含まれる可塑剤の種類と比率を100%の確度で特定できます。「フタル酸系フリー」と謳っている製品に、実はフタル酸エステルが入っていないかどうかの監査にも使われます。

  2. 改修工事における既存建材の診断
    リノベーションや解体工事の際、古い建物に使われている建材の成分を知る必要があります。特に1970年代〜90年代の建物には、現在では規制対象となっている化学物質が含まれている可能性があります。現場から採取した少量の壁紙や床材片をNMRにかけることで、当時どのような可塑剤が使われていたかを特定し、作業員の安全対策(適切な保護マスクの選定など)や廃棄物の分別区分(産業廃棄物のクラス分け)を決定する根拠データとすることができます。

  3. 揮発性有機化合物(VOC)対策の検証
    フタル酸ジエチルは揮発性が比較的高いため、シックハウス症候群の原因物質の一つとしてモニタリングされることがあります。建材メーカーが「低VOC製品」を開発する際、原材料の段階で不純物としてDEPが含まれていないか、あるいは製造プロセスで完全に除去できているかを確認するために、感度の高いNMR分析が不可欠となります。

建築現場の監督者が直接NMRを操作することはありませんが、分析機関から上がってきたレポートの「成分判定」の根拠がこのNMRスペクトルであることを知っていれば、検査結果に対する信頼度や、トラブル時の原因究明のアプローチが変わってきます。「なぜこのシーリング材だけ劣化が早いのか?」という疑問に対し、「可塑剤の成分が仕様と異なり、揮発しやすいDEPが混入していたことがNMR分析で判明した」という科学的根拠を持って施主に説明できれば、プロフェッショナルとしての信頼は格段に向上します。
愛知県衛生研究所によるフタル酸エステル類に関する解説です。室内環境における可塑剤の影響について平易に書かれています。​
室内環境とフタル酸エステル類の基礎知識

フタル酸ジエチルNMR分析で見抜く可塑剤の劣化メカニズム

これは一般的な検索結果にはあまり出てこない、独自の視点からのトピックです。NMRは単に「何が入っているか」を調べるだけでなく、「どのように劣化しているか」という時間の経過による変化を追跡するのにも極めて有効です。これを建築のメンテナンス計画に応用する考え方です。
建物が竣工してから10年、20年と経過すると、塩ビシートやコーキング材は硬化し、脆くなります。これは可塑剤が揮発して抜けていく物理的な減少だけでなく、紫外線や熱による**化学的な分解(加水分解など)**が進行している場合があります。
劣化した建材から抽出した成分をNMRで解析すると、新品のフタル酸ジエチルには存在しない「未知のピーク」が出現することがあります。


  • 加水分解の痕跡:フタル酸ジエチルが湿気やアルカリ(コンクリート成分など)の影響で加水分解すると、エタノールとフタル酸モノエチル、あるいはフタル酸そのものに分解します。NMRスペクトル上では、エチル基のパターンが消失したり、カルボン酸(-COOH)由来のブロードなピークが10 ppm以上の低磁場に出現したりします。

  • 酸化劣化の痕跡:紫外線劣化を受けた場合、ベンゼン環の対称性が崩れたり、酸化生成物による複雑なマルチプレットが現れたりします。

この「劣化マーカー」となるピークをNMRで検出することで、その建材が「単に乾燥して硬くなった」のか、それとも「化学的に分解して寿命を迎えた」のかを判別できます。これは、大規模修繕において「表面塗装だけで済ませるか」それとも「下地から全て撤去して打ち替えるか」という重大な意思決定を行う際の、科学的なジャッジ基準になり得ます。
通常、劣化診断は目視や触診、あるいは硬度計による物理的な測定が主ですが、化学分析の視点を取り入れることで、建物の「健康診断」をより精密に行うことが可能になります。特に文化財の保存修復や、超高層ビルのような長期供用が前提となる構造物では、こうした分子レベルでの劣化診断技術が、将来的なメンテナンスコストの削減に大きく寄与する可能性を秘めています。
NITE(製品評価技術基盤機構)による建築用シーリング材や接着剤の構成成分に関する資料です。可塑剤の役割が詳しく解説されています。
参考)(3)建築材料用接着剤・粘着剤・シーリング材の構成成分

建築材料用接着剤・シーリング材の構成成分と可塑剤

 

 


フタル酸ジエチルの毒性プロファイル