

建築業界において、接着剤やシーリング材、塗料の性能を左右する「可塑剤」の存在は無視できません。その中でもフタル酸ジエチル(DEP)は、かつて広く使用され、現在でも特定の用途で見られる化合物です。この物質が実際に製品に含まれているか、あるいは不純物として混入していないかを確認するための最も強力なツールが、核磁気共鳴装置(NMR)です。現場監督や建築士として、材料のスペックシート(SDS)を見る機会は多いでしょうが、そのデータがどのように導き出されているかを知ることは、品質トラブルを未然に防ぐ知識として役立ちます。
NMR(Nuclear Magnetic Resonance)スペクトルは、分子内の原子核が磁場に対してどのように反応するかをグラフ化したもので、人間でいうところのMRI検査のようなものです。フタル酸ジエチルの1H-NMR(プロトンNMR)スペクトルを見ると、その分子構造の特徴が化学シフト(ppm値)として明確に現れます。
これらのシグナルは単なる棒グラフではなく、**スピン-スピン結合(カップリング)**によって分裂して見えます。この分裂パターン(マルチプレット)を読み解くことが、解析の第一歩となります。例えば、隣に水素が2つあるメチル基は「トリプレット(三重線)」になり、隣に水素が3つあるメチレン基は「カルテット(四重線)」になります。この「3重線と4重線のセット」こそが、エチル基が存在する決定的な証拠となるのです。建築現場で例えるなら、設計図の寸法と実際の施工寸法がピタリと合うかを確認するような作業が、このスペクトル解析にあたります。
測定対象の純度が高い場合、スペクトルは非常にきれいに現れますが、実際の建築資材から抽出したサンプルでは、添加剤やポリマーのピークが重なり、解析は複雑になります。だからこそ、基礎的な化学シフトの位置を正確に把握しておくことが、異常検知のスキルとして重要になるのです。
日本の試薬メーカーによる詳細な製品情報ページです。フタル酸ジエチルの基本物性やCAS番号などが確認できます。
参考)フタル酸ジエチル
フタル酸ジエチル | DropChem
NMR測定を行う際、最も重要なのが「溶媒」の選択です。建築現場で適切な接着剤を選ばないと施工不良が起きるのと同様に、NMR測定でも適切な溶媒を使わないと正確なデータは得られません。フタル酸ジエチルのような有機化合物の解析において、世界標準として最も頻繁に使用されるのが**重クロロホルム(CDCl3)**です。
なぜ普通のクロロホルム(CHCl3)ではなく、重クロロホルムを使うのでしょうか。これには明確な理由があります。
通常のクロロホルムには水素原子(プロトン)が含まれています。もしこれを溶媒として使ってしまうと、溶媒自体の水素の量が圧倒的に多いため、測定したいフタル酸ジエチルの微量なシグナルが、溶媒の巨大なピークにかき消されて見えなくなってしまうのです。そこで、水素(H)を同位体である重水素(D)に置き換えた重クロロホルムを使用します。重水素は1H-NMRではシグナルとして検出されないため、背景が「透明」になり、見たい物質だけを浮かび上がらせることができるのです。
解析の具体的な手順は以下の通りです:
重クロロホルムは安価で溶解力が高いため重宝されますが、酸性度があり、一部の敏感な化合物を分解させるリスクもあります。しかし、フタル酸ジエチルのようなエステル類は比較的安定しているため、この標準的な溶媒で非常にきれいなデータが得られます。
有名な試薬メーカーSigma-AldrichによるNMR溶媒の解説記事です。重クロロホルムの特性や基準ピークについて詳しく学べます。
参考)https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/products/analytical-chemistry/analytical-chromatography/solvents/nmr-solvents
NMR用溶媒の基礎知識と化学シフト一覧
ここでは、より専門的な視点で、フタル酸ジエチルの「どの部分」が「どの波形」になっているのか、その詳細な**帰属(Assignment)**を見ていきましょう。建築図面で言うところの「詳細図」や「矩計図」に相当する部分です。この微細な違いを理解することで、類似の可塑剤(例えばフタル酸ジブチルなど)との見分けがつくようになります。
フタル酸ジエチル(C12H14O4)は対称性の高い分子です。ベンゼン環を中心に、左右に同じエチルエステル基がついています。この「対称性」がNMRスペクトルをシンプルかつ美しくします。
もし、この7 ppm付近のピークが崩れていたり、別のピークが混ざっていたりする場合、それは「異性体(イソフタル酸やテレフタル酸)」が混入しているか、あるいは全く別の芳香族化合物が含まれている可能性を示唆します。例えば、安価な可塑剤として混ぜ物をされた場合、この芳香族領域のパターンが微妙に変化します。熟練した分析官は、この「波形の顔つき」を見ただけで、「あ、これは純粋なDEPではないな」と直感的に気づくことができるのです。
化学情報サイトChem-Stationによる、NMR溶媒中の不純物ピークに関する詳細なまとめ記事です。
参考)NMR Chemical Shifts ー溶媒のNMR論文よ…
NMR溶媒および不純物の化学シフトデータ集
では、これら難解なNMRデータは、実際の建築現場や資材管理においてどのように役立つのでしょうか?実は、品質管理(Quality Control)とリスク管理の観点で非常に重要な役割を果たしています。特に、海外からの輸入建材が増えている現代において、その重要性は増しています。
建築現場の監督者が直接NMRを操作することはありませんが、分析機関から上がってきたレポートの「成分判定」の根拠がこのNMRスペクトルであることを知っていれば、検査結果に対する信頼度や、トラブル時の原因究明のアプローチが変わってきます。「なぜこのシーリング材だけ劣化が早いのか?」という疑問に対し、「可塑剤の成分が仕様と異なり、揮発しやすいDEPが混入していたことがNMR分析で判明した」という科学的根拠を持って施主に説明できれば、プロフェッショナルとしての信頼は格段に向上します。
愛知県衛生研究所によるフタル酸エステル類に関する解説です。室内環境における可塑剤の影響について平易に書かれています。
室内環境とフタル酸エステル類の基礎知識
これは一般的な検索結果にはあまり出てこない、独自の視点からのトピックです。NMRは単に「何が入っているか」を調べるだけでなく、「どのように劣化しているか」という時間の経過による変化を追跡するのにも極めて有効です。これを建築のメンテナンス計画に応用する考え方です。
建物が竣工してから10年、20年と経過すると、塩ビシートやコーキング材は硬化し、脆くなります。これは可塑剤が揮発して抜けていく物理的な減少だけでなく、紫外線や熱による**化学的な分解(加水分解など)**が進行している場合があります。
劣化した建材から抽出した成分をNMRで解析すると、新品のフタル酸ジエチルには存在しない「未知のピーク」が出現することがあります。
この「劣化マーカー」となるピークをNMRで検出することで、その建材が「単に乾燥して硬くなった」のか、それとも「化学的に分解して寿命を迎えた」のかを判別できます。これは、大規模修繕において「表面塗装だけで済ませるか」それとも「下地から全て撤去して打ち替えるか」という重大な意思決定を行う際の、科学的なジャッジ基準になり得ます。
通常、劣化診断は目視や触診、あるいは硬度計による物理的な測定が主ですが、化学分析の視点を取り入れることで、建物の「健康診断」をより精密に行うことが可能になります。特に文化財の保存修復や、超高層ビルのような長期供用が前提となる構造物では、こうした分子レベルでの劣化診断技術が、将来的なメンテナンスコストの削減に大きく寄与する可能性を秘めています。
NITE(製品評価技術基盤機構)による建築用シーリング材や接着剤の構成成分に関する資料です。可塑剤の役割が詳しく解説されています。
参考)(3)建築材料用接着剤・粘着剤・シーリング材の構成成分
建築材料用接着剤・シーリング材の構成成分と可塑剤