

建設現場、特に改修工事や耐震補強工事において、樹脂系接着剤やFRP(繊維強化プラスチック)防水材、あと施工アンカー(ケミカルアンカー)の使用は日常的な光景です。これらの施工に欠かせない「硬化剤」の多くには、有機過酸化物(Organic Peroxides)が主成分として含まれています。しかし、現場での取り扱いに慣れてしまうあまり、その化学的な危険性が見過ごされ、残液や空容器の不適切な廃棄処理によって、ゴミ収集車や焼却炉での爆発事故につながるケースが後を絶ちません。
参考)過酸化物とは?特徴、用途、構造、反応からメーカーまで徹底解説…
ここで重要なキーワードとなるのが「クエンチ(Quench)」です。化学用語で「反応停止」や「急冷」を意味するこの言葉は、建設現場においては、活性状態にある危険な過酸化物を、化学的に分解・中和し、安全な状態にしてから廃棄する一連の「不活性化処理」を指します。単に水で薄めるだけでは、過酸化物の危険な分子構造(酸素-酸素結合)は残り続けるため、いつ発火してもおかしくない「時限爆弾」を捨てることと同義です。本記事では、建設現場の安全管理者や職長が知っておくべき、過酸化物の正しいクエンチ処理と廃棄手順について、専門的な化学知見を噛み砕いて解説します。
参考)反応後の後処理・ワークアップのやり方
建設現場で主に使用される有機過酸化物には、メチルエチルケトンパーオキサイド(MEKPO)や過酸化ベンゾイル(BPO)などがあります。これらは消防法において「第5類危険物(自己反応性物質)」に分類されており、物質分子内に酸素供給源を含んでいるという極めて厄介な性質を持っています。
参考)https://www.iloencyclopaedia.org/ja/part-xviii-10978/guide-to-chemicals/item/1059-peroxides-organic-and-inorganic
現場でよくある事故パターンとして、余った硬化剤(過酸化物)を、硬化促進剤や他の廃液用ポリタンクに「とりあえず」混ぜてしまい、化学反応による突沸や爆発を招くケースがあります。クエンチ処理を行わずに廃棄ラインに乗せることは、処理業者だけでなく、近隣住民をも巻き込む重大事故のリスクを孕んでいるのです。
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen_pg/SAI_DET.aspx?joho_no=000441
参考リンク:危険物保安技術協会 - 有機過酸化物の火災事故の調査と対策(過去の事故事例と要因分析)
参考リンク:東京消防庁 - 建築工事現場における火災事例(乾燥設備や塗料関連の火災)
では、現場で余った過酸化物や、漏洩した過酸化物を安全に処理(クエンチ)するにはどうすればよいのでしょうか。大きく分けて、樹脂と混ぜて固めてしまう物理的な方法と、薬剤を使って分解する化学的な方法があります。
1. 樹脂による固化処理(推奨)
最も安全で一般的な方法は、本来の使用目的通り、主剤(樹脂)と反応させて硬化させてしまうことです。
参考)https://www.j-opa.jp/property_7.html
2. 還元剤による化学的クエンチ(専門的処理)
樹脂がない場合や、こぼれた液体を処理する場合、または実験室レベルの安全管理が求められる現場では、還元剤を用いた化学分解を行います。
参考)Reddit - The heart of the inte…
注意: 強酸や強アルカリを直接混ぜる方法は、急激な分解反応(暴走反応)を引き起こすリスクがあるため、専門知識がない場合は避けるべきです。特に、ケトンパーオキサイド類に濃硫酸などが触れると爆発的に反応します。
参考)https://patents.google.com/patent/JPH10158198A/ja
参考リンク:積水化学工業 - 貼付けプライマー硬化剤 安全データシート(漏洩時の処理方法として還元剤の使用について記載)
建設現場で最も多い誤解の一つが、「水で薄めれば安全になる」という思い込みです。確かに、水溶性の過酸化物(過酸化水素など)であれば、大量の水で希釈することで濃度が下がり、反応性は低下します。しかし、建設用硬化剤として使われる有機過酸化物の多くは、水に溶けにくい(疎水性)性質を持っていたり、水中に分散しても分子構造そのものは維持されていたりします。
物理的な「希釈」の限界
水で洗い流して排水溝に流す行為は、環境汚染になるだけでなく、下水道管内で過酸化物が再濃縮したり、他の化学物質と反応したりする危険性があります。また、希釈されたとしても乾燥すれば再び高濃度の過酸化物となり、発火能力を取り戻すことがあります。これを「ドライアップ危険」と呼びます。
化学的な「クエンチ(分解)」の必要性
クエンチ処理の本質は、過酸化物の危険な「-O-O-(ペルオキシド結合)」を切断することにあります。
参考)過酸化物 - Wikipedia
現場監督は、「薄める(希釈)」と「殺す(失活・クエンチ)」が全く別の操作であることを作業員に周知徹底する必要があります。「とりあえず水で洗え」という指示は、場合によっては汚染範囲を広げるだけの危険な行為になり得るのです。
クエンチ処理を行い、不活性化したとしても、最終的な廃棄物の処分には厳格な法的ルールが適用されます。
消防法上の規制
未使用・使用済みに関わらず、過酸化物が一定量以上残存している場合、それは依然として「指定可燃物」や「第5類危険物」としての扱いを受ける可能性があります。保管や運搬には、指定数量に応じた安全対策(消火設備の設置、掲示板、火気厳禁など)が義務付けられています。
参考)https://www.khk-syoubou.or.jp/pdf/paper/r_2/2rijityou2.pdf
廃棄物処理法とマニフェスト(産業廃棄物管理票)
事業活動に伴って生じた廃油、廃酸、廃アルカリ、廃プラスチック類は産業廃棄物です。
もし、中身を隠して一般的なゴミとして出し、収集車で火災が起きた場合、排出事業者は多額の損害賠償請求だけでなく、社会的信用を失うことになります。
参考リンク:環境省 - 廃棄物情報の提供に関するガイドライン(WDSの記載要領、有害特性の伝達について)
万が一、現場で硬化剤タンクを倒してしまった場合や、大量にこぼしてしまった場合の緊急対応(スピルレスポンス)の手順をまとめておきます。
現場には必ず「乾燥砂」や「吸着マット」、そして可能であれば「保護メガネ」「耐薬品手袋」を備蓄した『緊急漏洩対策キット』を常備しておくことが、作業員の命を守る最後の砦となります。

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