

建築現場や設備管理の仕事をしていると、水回りのトラブルで「炭酸カルシウム」や「スケール」という言葉をよく耳にするはずです。しかし、その前段階にある「炭酸水素カルシウム」という存在については、あまり深く意識されていないことが多いかもしれません。実は、この炭酸水素カルシウムの化学式 Ca(HCO₃)₂ こそが、水に溶けない石灰を水に溶かしてしまう「運び屋」のような役割を果たしています。
参考)NCSC工法
まず、この化学式が持つ最大の特徴は、「固体として単独で存在できない」という点です。炭酸カルシウム(CaCO₃)は石灰岩や貝殻の主成分であり、水にほとんど溶けない白い固体ですが、ここに二酸化炭素(CO₂)を含んだ水が触れると、化学反応が起きます。
参考)鍾乳洞と無機化学 - 予備校なら武田塾 小牧校
この反応によって生まれた炭酸水素カルシウムは、水に非常によく溶ける性質(高い溶解度)を持っています。つまり、本来溶けないはずのカルシウム成分が、炭酸水素イオン(HCO₃⁻)と結びつくことで、水に溶け込んで移動できるようになるのです。この「溶解度の劇的な変化」こそが、すべての建築トラブルの始まりと言っても過言ではありません。
参考)pH中和理論 | 【AKTIO】アクティオエンジニアリング…
逆に言えば、この水溶液から二酸化炭素が抜ける(加熱されたり、圧力が下がったりする)と、反応は左側へ進み、再び水に溶けない炭酸カルシウムが固体として現れます。これが、私たちが現場で目にする「スケール」や「白華」の正体です。この可逆的な反応(行ったり来たりできる反応)を理解することが、メンテナンスや品質管理の第一歩となります。
参考リンク:pH中和理論 - 炭酸カルシウムと炭酸水素カルシウムの溶解反応についての詳細解説
建設現場でのコンクリートの劣化やスケールの問題を深く理解するために、自然界で起きている壮大な化学実験である「鍾乳洞」のメカニズムを見てみましょう。鍾乳洞ができるプロセスは、実はビルの配管や地下ピットで起きている現象と化学式上はまったく同じです。
参考)https://www.eng.kagawa-u.ac.jp/~tishii/Lab/241109tour/241109tour.html
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山に降った雨水は、土壌を通る際に微生物の呼吸などによって発生した二酸化炭素をたっぷりと吸収します。この酸性になった雨水が、石灰岩(炭酸カルシウム:CaCO₃)の地層に染み込むと、先ほど説明した化学反応が起こり、石灰岩を「炭酸水素カルシウム(Ca(HCO₃)₂)」として溶かし込みます。こうして岩が侵食されてできた空洞が、鍾乳洞の原型となります。
参考)https://khem2025.stars.ne.jp/lechatelier/co2.htm
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ここからが重要です。地下水として洞窟の天井から滴り落ちる際、水滴は空気にさらされます。すると、水の中に溶け込んでいた二酸化炭素が空気中へ逃げていきます。
この反応により、水に溶けていられなくなったカルシウム分が、再び「炭酸カルシウム」の固体に戻り、天井に沈殿します。これが何万年もの時間をかけて積み重なったものが、氷柱のような鍾乳石です。また、床に落ちた水滴からも同様に二酸化炭素が抜け、下からタケノコのように伸びる石筍(せきじゅん)が形成されます。
建築現場では、これと同じ現象がもっと速いスピードで進行しています。例えば、コンクリートのひび割れから水が侵入し、成分を溶かし出して別の場所で固まるといった現象です。鍾乳洞の美しさは自然の芸術ですが、建築物においては配管を閉塞させたり美観を損ねたりする厄介な現象となります。このメカニズムを知っておくことで、なぜ「水」と「二酸化炭素(空気)」の接触をコントロールしなければならないのか、その理由が明確になります。
参考)コンクリート表面の変色メカニズムと清掃方法
参考リンク:鍾乳洞と無機化学 - 反応式と沈殿生成のプロセスについての分かりやすい解説
設備工事やメンテナンスの現場で最も頭を悩ませるのが、給湯配管や熱交換器に付着する「スケール」の問題です。このスケールの主成分の多くは炭酸カルシウムですが、なぜ透明な水からカチカチの石のような塊が生まれるのでしょうか。ここにも炭酸水素カルシウムの化学式が深く関わっています。
参考)https://messe.nikkei.co.jp/files/AS12761/5-202505221603100658.pdf
水道水や地下水には、地層由来のカルシウム分が炭酸水素カルシウムの形で溶け込んでいます。この状態では水は透明で、配管内をスムーズに流れます。しかし、ボイラーや熱交換器で水が「加熱」されると状況が一変します。水温が上がると、水に溶けることができる気体(二酸化炭素)の量が減少し、強制的にガスとして追い出されてしまいます。
参考)【事例紹介】配管に発生したスケールは成分分析で原因物質が分か…
この化学反応は、温度が高ければ高いほど激しく進みます。そのため、最も熱負荷がかかる熱交換器の伝熱面や、ヒーターの表面に集中的にスケールが付着することになります。スケールが付着すると熱伝導率が極端に低下し、ボイラーの燃料費が無駄にかかるだけでなく、最悪の場合は配管が閉塞して設備停止に追い込まれます。
参考)https://miyazaki-u.repo.nii.ac.jp/record/1712/files/Tanabe_kimiko.pdf
さらに厄介なことに、一度析出した炭酸カルシウム(カルサイト結晶など)は非常に硬く、通常の水流では剥がれません。これを除去するためには、酸性の洗浄剤を使って化学的に溶かすか、物理的に削り取る必要がありますが、いずれも配管を傷めるリスクを伴います。
最近の対策技術としては、特殊な装置を使って意図的に水中の炭酸水素カルシウムを反応させ、配管に付着しにくい結晶構造に変えてしまう工法なども登場しています。化学式を理解することは、単なる知識ではなく、効率的な設備管理とコスト削減に直結する実務的なスキルなのです。
参考リンク:NCSC工法 - スケール除去と付着防止のメカニズムに関する技術解説
建築仕上げや外構工事の現場で、竣工から間もないコンクリートブロックやレンガの目地が白く汚れてしまい、クレームになった経験はないでしょうか。これは「白華現象(エフロレッセンス)」と呼ばれ、現場では「鼻垂れ」などとも呼ばれる現象です。この現象も、炭酸水素カルシウムの化学式とかかわりがあります。
参考)コンクリートやタイルに現れる白いもの、「白華現象」の原因と対…
コンクリートやモルタルは、セメントの水和反応によって固まりますが、その過程で大量の「水酸化カルシウム(Ca(OH)₂)」が生成されます。これは強アルカリ性の物質で、鉄筋をサビから守る重要な役割を果たしていますが、雨水などが内部に侵入すると水に溶け出してしまいます。
参考)コンクリート白華現象の原因と落とし方、予防方法を探ってみた …
溶け出した水酸化カルシウムを含んだ水が、毛細管現象によってコンクリートの表面まで移動してくると、空気中の二酸化炭素と反応します。
参考)https://www.soc.co.jp/sys/wp-content/themes/soc/assets/pdf/service/cement/tech_pdf/05shirohana.pdf
表面で水分が蒸発すると、そこに白い炭酸カルシウムの結晶が残ります。これが一次白華と呼ばれるものです。さらに、すでに形成された炭酸カルシウムが、雨水と二酸化炭素によって一度「炭酸水素カルシウム」として溶け出し、再び乾燥して別の場所に再結晶化することもあります。
特に冬場は気温が低く湿気が多いため、コンクリートの乾きが遅く、反応する時間が長くなるため白華が発生しやすい傾向にあります。また、梅雨の長雨も内部への水分供給を増やし、成分の溶出を助長します。
この現象を防ぐためには、化学式から逆算した対策が必要です。つまり、「水を入れない(撥水剤の塗布)」、「二酸化炭素と触れさせない(表面の緻密化)」、あるいは「溶け出す成分を減らす(混和材の工夫)」といったアプローチです。単にブラシでこすり落とすだけでは、内部から次々と成分が供給されるため、いたちごっこになってしまいます。根本的なメカニズムを理解して、設計段階や施工段階での予防策を講じることが、美しい仕上がりを長く保つ秘訣です。
参考リンク:白華現象の原因とメカニズム - コンクリートやタイルの白い汚れについての解説
ここまで、炭酸水素カルシウムや炭酸カルシウムの生成反応は、スケールや白華といった「厄介者」として扱ってきました。しかし、最新の建設技術では、この化学反応を逆手にとり、コンクリートのひび割れを勝手に直してしまう「自己治癒コンクリート」という画期的な技術が実用化されています。これは、検索上位の一般的な解説ではあまり触れられない、化学式のポジティブな応用例です。
参考)自ら修復するコンクリート
この技術の鍵となるのは、特殊な「バクテリア」です。コンクリートを練り混ぜる際に、休眠状態のバクテリアと、その餌となる乳酸カルシウムなどをカプセルに入れて混ぜ込みます。通常の状態ではバクテリアは眠ったままですが、コンクリートにひび割れが発生し、そこから水と酸素が侵入すると、バクテリアが目を覚まして活動を開始します。
参考)バジリスク(Basikisk) • アスザック株式会社 イン…
バクテリアは餌を代謝し、その過程で二酸化炭素や炭酸イオンを放出します。これらが周囲のカルシウムイオンと反応することで、ひび割れの内部で積極的に「炭酸カルシウム」を作り出すのです。youtube
通常の白華現象は、表面を汚すだけの無秩序な反応ですが、この自己治癒コンクリートでは、ひび割れという欠陥部分を集中的に炭酸カルシウムで埋めていきます。まるで人間がかさぶたを作って傷を治すように、コンクリートが自ら傷を塞ぐのです。
この技術により、防水性が回復し、鉄筋の腐食を防ぐことができるため、インフラの寿命を大幅に延ばすことが期待されています。維持管理が難しいトンネルやダム、地下構造物などでは、すでに導入が進んでいます。
参考)【企業紹介】バクテリアの力を活かした自己治癒コンクリートの実…
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私たちが「配管を詰まらせる原因」として忌み嫌っていた化学反応も、制御の仕方一つで「構造物を守る守護神」へと変わります。炭酸水素カルシウムの化学式を単なる記号としてではなく、制御可能な現象として捉え直すことで、建設技術の新しい可能性が見えてくるのです。youtube
参考リンク:自ら修復するコンクリート - バクテリアを活用した最新技術の紹介